詩人の墓碑銘

「読むことは旅をすること」 長田弘

この本は、「失われた時代」、「見よ、旅人よ」、「詩人であること」、「笑う詩人」、「詩と時代1961-1972」、「われらの星からの贈物」、「読書百編」に収められたエッセイ(主に旅に関するもの)を集大成したもの。単行本に未収録のエッセイが4編収められている。僕はこれらの本は全て読んでおり、大学生の頃「詩人であること」と「読書百編」は繰り返し読んだ。それでも「読むことは旅をすること」を買って読んだ。鶴見俊輔さんによると、本当の読書の楽しみというのは100冊位の本を繰り返し読むことだそうだ。その100冊を選ぶためにそれこそ数千冊の本を読まなくてはいけないけれども。

この本の旅は、敗者を訪れる旅だ。第一次世界大戦、対独レジスタンス、スペイン市民戦争、ポーランド・アウシュビッツ、ソ連・スターリンの大粛清等で死んでいった、あるいは自殺していった詩人の墓を巡る旅。フランスとスペインの国境近くで、本国へ強制送還されることになりモルヒネを飲んで自殺したベンヤミン。そのベンヤミンの墓はない。ポール・ニザンが戦死した町で見つけたのは、墓と墓との間にある空間だけだった。

スペイン市民戦争とは「こいつは戦争じゃない。ときどき死者のでるコミック・オペラ」だ。ふたりのパブロは、スペイン共和国の崩壊後、フランコのスペインを認めず、故郷には戻ることはなかった。一人のパブロはゲルニカを描き、もう一人のパブロは詩人オーデンとともに国連賛歌を作った。詩人オーデンは、スペイン市民戦争後にニューヨークへ移住し33年間住み続けた。オーデンの墓碑銘は1930年代の終わり、スペイン市民戦争の「戦後」のはじまりのなかで書かれた詩の一節である。

日々の牢獄のなかにあって、自由なる人に、いかに賛うべきかを教えよ。

第一次世界大戦の終戦一週間前に25歳で死んだひとりの詩人が遺したのは、32篇の詩と未刊の詩集の序だった。

戦争は冗談だ。きみにとってもぼくにとっても。
とはいえ、ぼくらはそれが正夢だと知っている。

ぼくらは笑った。ぼくらは知っていたからだ。きっと
もっといい人間がやってきて、もっとましな戦争がくると。
そのときには、どの誇りたかい戦士たちも高言するだろう、
生のために、死と戦うのだと。-人間は戦わない-旗のためには。
ウィルフレッド・オウエン「次の戦争」

ディラン・トマスが捧げたウィルフレッドXの碑銘。

He lost, and he won.

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故国喪失の時代

「ロスト・ジェネレーション」 マルカム・カウリー

アメリカの1900年前後に生まれた文学者たちの1920年代を回想するエッセイ。”大批評家”マルカム・カウリーがまだ若く貧しかった頃を友人の文学者や芸術家との交流と自伝的記録により、その時代を振り返る。高校時代から、第一次世界大戦後の好景気と20年代最後の大恐慌までを回想している。その情況が現代と驚くほど似ている。

ケネス・バークが幼なじみの友人としてなにげなく描かれているのがこの本の凄いところでもある。ヨーロッパへ渡ったカウリーは従軍し、ダダの運動に参加し、ジョイスにインタビューし、ヨーロッパをドストエフスキーのように旅をする。その旅は、貧しい故に放浪のような意味合いを持つ。当時のアメリカの作家たちが、フランス・パリに憧れ故郷を離れる。芸術や思想を生産するのはヨーロッパという考えが支配的だったが、大戦後10年もすると変わっていった。

すでになんらかの変化が生じていたし、1920年代の国外脱出者たちはそういう変化の一端を担っていた。ドストエフスキーを産み出すことこそなかったけれど、この程度の変化をひきおこすのに天賦の才など必要なかった。ただ旅をして、見たものを比較し、検討し、ありのままを書き記せば十分だった。こういう変化のなかで、僕らが苦しめられてきた劣等感はいつのまにか消え去っていた。気がつけば荷はなく、誰もその変化を気にも留めていなかったのである。現在のビジネス中心主義という宗教にとってかわる「アメリカの神」を創出する必要など誰も感じていなかった。そのかわりにアメリカ人亡命者たちは、「ロスト・ジェネレーション」という国際的神話を創りだしたのである。

最後の章で、ハリー・クロズビーの自殺を取上げている。ハリーは31歳という若さで、お金もあり、幸せな結婚生活を送り、いたって健康だった。とにかく順風満帆の人生を送っているように見えた。彼は日記をつけており、これがいわば鏡の枠に挟み込まれた手紙の代わりになった。この日記には自殺する理由が書かれていたわけではなかったが、生前の行動や読んでいた本、信条の数々を記録しており、これを読めば自殺の本当の理由が読み解くことができる。彼の短い文学的キャリアを振り返るとこの本で発展させようとしたテーマがすべて含まれているとカウリーは書いている。故郷を去ったこと、軍隊経験、フランスへの亡命、ボヘミア生活、芸術信仰と社会からの離反、作家として自らの個性を懸命に保とうとしたこと、思想的枠組みが内側から崩れ落ち、そのために味わうことになった虚無感。彼の自殺は、三段論法の結論部、誠実で魅力にあふれた一篇の詩を締めくくる、最後の署名のようなものだった。死こそ彼の永住の地であったとカウリーは書いている。

あれこれ読んだ末にたどり着いた結論は、なにを差し置いてもまず個性を得るべきだ-そして最高の自己表現とは自己滅却という行為のうちにある、というものだった。同じく読書を通じて、なにを賭してでも恍惚の境地にいたるべきで、死こそは究極の恍惚だという考えにもたどり着いた。書物のおかげで狂気を崇拝することを知り、狂気を求めるようにもなった-となれば、自分を殺すこと以上に狂った振る舞いがあるだろうか?さらに彼が学んだのは、生そのものが素晴らしいクライマックス-「しかるべき死にどころ」-へといたる一個の芸術作品となりうるかもしれない、ということだった。自殺こそが最期の放埒な振る舞い、究極の驕奢ぶり、大胆きわまりない性行為、自分が嫌悪してきた世の中に対する最高の挑戦的身振りとなるだろう、と。

財政破綻をおこした社会は、暴動と粛清、革命と反革命の時代に入り、ハリー・クロスビーという死者は、その変化の象徴となった。狂乱のさなかにあった彼を死が選び取り、彼は知らずに、「正しき時に」死を迎えたと最後にカウリーは書いている。

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昭和イデオロギー批判

「『近代の超克』とは何か」 子安宣邦

最初、この本を読んでいて、竹内好批判かと思ったが、最終章ではその批判が一転評価に変わる。この変容が本書を読んでいて一番わかりにくいところだった。

著者は、竹内好の反語的言語をロマン派のものであるという。また、魯迅を絶望的現実にあってなお自己であり続け、道のない道をなお行こうとするほんものの抵抗者として捉え直すのは、虚構であり、作られた魯迅と見なす。

竹内が「大東亜戦争」を対中国の戦争としては侵略戦争であり、対米英の戦争としては帝国主義国家間の戦争であったとこの戦争の二重性を規定する。侵略戦争に関しては日本人は責任があるが、帝国主義戦争の側面では日本だけに一方的な責任があるわけではない。この論に関して、著者はきわめて大ざっぱな議論であると見なす。というのは、帝国主義国家間戦争とは覇権国家間の対立で、帝国主義的な世界秩序とその再編を巡る争いであって、そこから侵略戦争の性格を切り離せないし、日本の対帝国主義戦争がアジアの解放・独立への道を開いたといった自己弁護的な靖国神社史観を導くだけだと著者は述べている。

文明一元論的に世界を支配し、世界に浸透するヨーロッパ文明に否定的に対抗し、その否定として文明を再建しようとする原理がアジア的原理であり、その原理を把握するものがアジアであると竹内はいうのである・・・とすればアジア的原理とは、近代日本の国家的戦略の基底にヨーロッパ的原理と矛盾しながら二重性をなして存在するような原理ではないはずである。ところが竹内の「近代の超克」再論は、「大東亜戦争」の二重性によって、近代日本国家の戦争伝統における矛盾する二つの原理の緊張的な持続をいい、それが「永久戦争」の運命を太平洋戦争に与えたというのである。これは一体何なのか。竹内は自らに反してアジア的原理を歴史の上に対抗原理として実体化しているのではないか。

ここまでの議論なら、「近代の超克」座談会、京都学派の「世界史の哲学」、日本浪漫主義派の流れから理解できると思う。しかしながら、終わりの2章で、明らかに論調が変わる。アジア主義とアジア的原理がどのように違うのかどうも僕には分からない。著者はつぎのように述べている。

アジア主義とは竹内がしているように、抵抗し、突っ張るものが日本の近現代史に引く思想的な対抗軸である。アジアとは方法的概念だと竹内はいうが、アジア主義もまた非実体的な方法的概念である。竹内がアジア主義という対抗軸を引くことで、日本近代史ははじめて対立矛盾し、葛藤する二重性として現れるのである。そして日華事変はなお未解決の問題として、永久戦争的な思想的課題をわれわれにつきつけるものとなるのである。

「近代の超克」という言葉は、戦後も何度も取上げられ論じられてきている。戦後間もない頃の議論は、鬼の首を取ったような戦争責任論が多い。日本が経済復興した後は、「日本の対帝国主義戦争がアジアの解放・独立への道を開いた」という「大東亜共同体」論が繰り返されてきている。政治家の失言で多いのはこの種の言葉である。なぜ昭和10年代のイデオロギーがこれだけ日本人を捉えるのか。

20世紀の昭和前期の日本はヨーロッパ的世界秩序に包括されるアジアから、その世界秩序の組み替えの要求を「東亜新秩序」の建設のための戦争として表現した。「東亜新秩序」の建設とは15年戦争を遂行する日本の国家目標であり、戦争の理念であった。「世界史の哲学」者をはじめとする昭和の知識人はこの「東亜新秩序」建設の戦争に、「近代の超克」の課題を負う思想戦という性格を与えていったのである。日本の敗戦は、アジアにあってアジアではない日本が東亜の盟主を任じてきたことの欺瞞をあらわした。

アジアにあってアジアではない日本が東亜の盟主として世界秩序の組み替えを行うという論考は、日本人にわかりやすくコミットしやすいと思う。2008年の現在、「東アジア共同体」は日本の言説上に姿を現しており、2008年の「東アジア共同体」という日本からの提案は、現代化が社会的不均衡と生活環境の荒廃とが進行する現代アジアの悲惨を隠そうしている。そして日本から提示される「東アジア共同体」とは、この悲惨を増幅させている己自身も欺く希望の提示であると著者は述べている。これに対抗するものとして竹内の「方法としてのアジア」を著者は引用している。なぜ「方法としてのアジア」なのか。

アジアを目的とするところから、「東アジア共同体」がでっち上げられてくるのである。「方法としてのアジア」とは、否というアジアをエセ文明への抵抗線として引くことである。問題はその抵抗線にいかにしてアジアになりうるかである。それは植民地・従属的アジアから自立的アジアへと転換させた創成アジアの意志を、殺し・殺される文明から共に生きる文明への転換の意志として再生させることによってである。だが日本にその抵抗線を引く資格はあるのか。それが最後の最後として残された問いである。私は戦争をしない国家としての戦後日本の自立こそ、わずかにこの抵抗線を引く資格をわれわれに与えるものだと答えたい。

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12の砂山

「出ふるさと記」 池内紀

12人の作家の列伝紀行。それを池内さんは、幼い子が砂山をつくっては壊す様に例えている。握りしめると溢れてしまう砂の感触のようなふるさとと作家の微妙な接点。ふるさとを出奔してから帰えらないあるいは帰れないひともいれば、何度も上京しては挫折し、傷心でふるさとに帰るひともいる。この本の帯にはつぎのように書かれている。

ふるさとを持たないことの恵みと豊かさ。とともにひそかに、ふるさとを持つことへの願望にあえいでいた。(略)人間はなんとしても、ふるさとを必要とする生き物であるからだ-たとえ、たえず振り捨てるためだとしても。(略)そこから出ていくために人はふるさとを持たなくてはならない。ふるさとを持たないで老いるのは酷いことだ。

「笑い虫」の牧野信一と「彷徨」の尾崎翠は、全く作品を読んだことがない作家。他の作家についてはなんらかの本を読んでいた。尾崎翠は鳥取県岩井郡岩井宿出身。岩井温泉で知られている。七度上京して、結局、ミグレニン常用による障害が実家に知られたため、長兄が上京して、妹を鳥取へ連れ戻す。尾崎翠の彷徨も終わり、創作も終わった。その後は、文壇との関わりをもたず、姪の世話したり、手製の雑巾を売り歩いてひっそりと暮らした。

町並みも店のつくりも、四六時中、変化していく。もはや定まった用向きでくる顧客用ではないからだ。用もなくやってきて、何となく足をとめる。そんなとりとめのない人種には、一、二、三の数字を割り振った名前こそぴったりだし、風景もまた数の性質をおびてくる。尾崎翠がいまなお新鮮なのは、いっそう苛烈に現代に機能している「第七官界」がものみごとにとらえてあるからだ。いまや数字はコンピューター的数式をもち、コンビニ的配式をとって、出入りする誰もが電気仕掛けの耳当てをしている。

牧野信一は神奈川県小田原に生まれた。上京を繰り返すが、小田原の家で、たそがれ時に納戸で首をくくって自殺する。文学仲間だった宇野浩二が追悼文で故郷に帰ることについて述べている。「彼がその家で暮らす時は、東京で暮らしが立たなくなった時である」。アメリカ帰りの父親との会話は英語ばかりだった。父親に対すると日本語が出てこず、なめらかに英語が喋れるのが異様だったという。

この「出ふるさと者」はたかだか十哩の間に、ふるさとを巧みに変貌させた。古くさい宿場町は輝く太陽の下のギリシャのポリスとなり、村娘がドン・キホーテのドゥルシネア姫に変身する。主人公はきまって無力なノラクラ者だが、芝居気たっぷりに強がってみせると奇蹟が起こった。芝居の暗転のように、やにわに辺りが夢と予感を持ちはじめ、イデアの世界に変わっていった。

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世界市民の立場

「カントの啓蒙精神」 宇都宮芳明

「いま哲学とはなにか」の読書案内に宇都宮哲学の絶筆とあった。宇都宮さんの生前に刊行された最後のカント関係の著作。「カントの啓蒙精神」と題名にあるが、カント哲学の全体を俯瞰している。「カントの啓蒙精神」のほうを先に読んでいて、その間に「いま哲学とはなにか」を読み出して気がついた。

カントは啓蒙に必要な3つの格率、「自分で考えること」、「自ら他人の立場に立って考えること」、「つねに自分自身と一致して考えること」をあげている。人間が生きるということは、自らの理性を使用して、欲求の対象を目的として表象し、その実現を図ることである。「自分で考えること」が啓蒙の第一とされたのは、各自が自らの理性使用によって自らの性格を確立することに個人の啓蒙の最終目標が置かれているためである。カントは、人類が全体として道徳化されることによって人類の啓蒙が完成し、人間が本当に理性的存在の名に値する者になると考えた。だが、なぜ道徳化を人類啓蒙の最終段階とするのかという問題がある。そこでカントは、道徳化を理性使用の究極目的と定め、開化や文明化にかかわる理性使用をこの目的に従属するものとして、人間の理性使用全体に一貫性を与えようとした。

これは一言でいえば、世界を創造した悟性的存在者すなわち神が、創造の究極目的として、自らの善い意志によって幸福に値することをめざす「道徳的存在者としての人間」を創造したのであり、そこで人間はそのような存在者としてのみ自然の目的論的体系における究極目的であることができる。

カントは、通常の人間理性ですら、道徳法則が「理性の事実」としてあることを知っているという。道徳法則を「理性の事実」と認めるのは「健全な理性」の持ち主である。しかし、人類の啓蒙が完成すれば、人間はだれでも「理性の事実」の道徳法則に従うべきであることを確信する。これは、人類は全体として啓蒙可能であるというカントの啓蒙精神である。カントの考えでは、人間の存在が絶対的価値をもったものであり、それは人間のだれもがその価値を尊重しなければならない存在である。個々の人格としての理性的存在者を「目的それ自体」として尊重しなければならないのは、人類の啓蒙の完成をめざしているからである。

人類は将来どうなってもよいし、悪によって滅びても良い、それは私にとってなんの関係もない、と考える人間は、たとえ「人間愛」を自分の周りに広げても、それは人類愛としての人間愛の所有者とは言えない。カントの人間愛は、理性的存在者として個人である人間に対する愛であり、しかも人類の一員である人間に対する愛であって、この両者が合一しているところに成り立つ。個人の完全性にむけての義務は、同時に人類の完全性にむけての義務である。カントの道徳は、たんなる個人的道徳ではなく、人類を視野に収めた道徳であり、先に見たように、「世界市民」の立場に立った道徳であって、ここに人類の完成をめざしたカントの啓蒙精神が読み取れるのである。

このような人類の啓蒙は、一挙に完成することはないと思う。人類全体が啓蒙されるには、啓蒙が世代から世代へ継承されることが必要だとカントは考えている。それは人類としての義務でもある。カントにとって人類愛とは、人類を傍観する立場で語るものではなく、自分も世界市民として、人類の一員として、悩みを共にし、将来の完成を信じ、それにむけて「思考の方向を定める」ことであった。カントの死後200年あまりたって、人類の啓蒙は進展したかというと答えは多分「否」である。「否」だからこそカントがいまだに読み続けられているのだと思う。カントが真の意味でのリアリストだったのか、単なる「夢想家」だったのかは何世紀後かにわかるのかもしれない。

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WEB問答集

「なんでも僕に訊いてくれ」 加藤典洋

「考える人生相談」に続く、”WEBちくま”で連載された問答の第二集。今日の午前中、神田へ行って、amazonで品切れになっていたペルトマンの「評伝シモーヌ・ヴェイユ1・2」を三省堂で見つけて買ってきた。先に立ち寄った東京堂ではペルトマンの本がなかったので、加藤さんの本を買った。

今回の質問は、「考える人生相談」に比べると変な質問が多い。WEBが熟成したせいか、堅苦しいものや深刻な質問が少なくなっている。質問者も真摯な感じではなく、お手軽というか遠慮なく質問しているような感じがした。だから、この本はすぐに読めてしまう。そのへんのところは、「変なやつがいるなあ。ヘンな質問を立て続けに四、五回受けた。アホか。さて」と回答者も書いている。WEB上のやりとりを本に纏めると意味がよく分からなくなるところがある。

第四章の「人とつきあう方法」に変な質問が多い。「男が女の人から結婚を迫られたときは?」「好きな人と長く付き合う秘訣は?」「人が他人に対して関心を持っていられるためには?」「異なる価値観を持つ人を理解するには?」「キスの魅力は?」などで、回答者もあまりまじめに対応していない。ようするに、「そんなこと自分で考えろ」。もうひとつ「哲学、思想、文芸評論は”役に立つ”のか?」という質問には、「役に立ちません。いま、その外にいるなら、近づかない方がよいです」と回答している。

僕が面白いと思った問答。

-「物欲」は所有欲か、排泄欲か
-購買行為は、高度化し、純化した結果、結果としてみれば物欲=所有欲の発見と見えるけれども、原因としてみれば、物欲=排泄欲の発見と見える、そういう行為になった。僕も時々闇夜に眼を光らせているときがあります。

-資本主義は富の偏在を内側から補正するような「何か」を生み出すことはないでしょうか
-ヒントは、人はいつか死ぬ、そのことが、すでに、欲望の追求、私利私欲、自己中心性の根本に埋め込まれている、ということだろうと思います。もっとも遠い未来、もっとも広い他人の範囲。そういうことを考えないと、もう、未来のこと、他人のことを考えられない。自分が死ぬこと。死が近づいていること。いずれにしてもそういう人間のうちに必要と欲望が生じ、資本主義もまた、この人間性の上に立脚するものであること。死ということ、それが僕には、資本主義を含め、人が生きることに関し、一つの可能性を開くことのようにも、思われます。

-民族の歴史の責任をとることについて
-自分はむろん、自分が生まれる前のことに責任はないが、相手との関係のネットワークは過去をともなって成立しているのであるから、そのネットワークにメンバーとして登録し、参加し、相手との関係を欲するがゆえに、その責任を自分で喜んで「引き取り」「引き受け」させてもらう、ということになる。なぜ喜ぶのですかって?だって、過去の責任を「引き取る」ことは、未来に向けた相手との関係のネットワークに参加することであると同時に、過去の「自分の生まれる前」との関係のネットワークに参加することでもあるから。

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丸腰で生きる

「いま哲学とはなにか」 岩田靖夫

岩田さんの本の終わりには、亘理にてと書かれている。僕の父親は、亘理で生まれて、定年退職後そこに住もうとしたがそれを果たせず亡くなった。僕も1度だけ亘理にいったことがある。その時は、そこに岩田さんが住んでいたと知らなかった。この本は、「不測の破局的様相を見せ始めている現代」において哲学はどのように応えられるかについて考えた本である。

現代は、ある特定の文化や宗教によって世界を統合することが不可能な時代になった。人類が生き延びる唯一の道は、異なる文化・宗教が相互に畏敬の念をもちつつ共存する道を探すことしかない。その道の探求が現代における正義論の課題だと著者は述べる。

自由と平等の思想は、古代ギリシャから始り、数々の流血の犠牲を経て獲得した直覚観念である。アリストテレスは「幸福とはアテレーに即した生命の活動」と言っており、これは現代の「自己実現が幸福である」という考えの原型である。ロールズも「自由の原理」を最優先の原理にしている。自己実現とは理性的な自己の実現でなければならない。すなわち、自分自身の善の観念をもつことであり、人生の意味づけが各人の主観に委ねられていることが自由の根本の意味である。また、人は国家社会の基本構造を認識し、正義にかなった社会にするべく努力するための公共的な倫理能力を持たなくてはならない。

平等とは、ひとが自由であることにおいて等しいという意味である。しかし、自由と平等という思想は、美しいが故に強者の利益を隠蔽する錦の御旗になる恐れがある。自己防衛のための正義の戦争というのは怪しい。真の平和を実現するには、カントが言うように一切の戦争を禁止すること。すなわち平和の実現は人間に課せられた道徳的義務である。

平和な社会を建設するための重要事は、人々が遵法精神を身につけることである。遵法精神とは理性に従って生きる精神である。これは一朝一夕で成就することではない。教育とは「人間であること」を教えることであり、理性による欲望の制御を陶冶することである。このことは人間が生まれて死ぬまで努力しつづけなければならない人間であることの課題である。

丸腰で生きる。これが世界平和への道である。個人としても、国家としても、武器を持たずに生きることが、隣人を殺さない道である。それは、誰かが始めなければ、どこからも始らない。誰かが始めてくれることを待っていても、決して始らない。すなわち、自分自身が丸腰になって生きることから始めなければ、すべては始らない。

200頁ちょっとの本であるが、著者の思いが伝わってくる本であり、読みごたえのある本だった。リアリストのカントが、最晩年「永遠平和のために」を書かざるを得なかったように、現実と理想(ユートピア)とのどちらを選ぶかといえば、理想を選択することが社会を変えていく力になると思う。奇しくも長谷川さんの本にもカントの「永遠平和のために」が言及されていたのは、現代が破局的様相を見せていると感じたからかもしれない。最後に、著者はつぎのように述べている。

自分を守るために、他者を殺さない。復讐しない。不正を加えられても、不正を返さない。どのようなときでも、どのような他者にも、善意を贈りつづける。それは、他者に対して限りない畏敬の念をもつ、ということである。他者のうちに、神の似姿を見る、ということである。そこを目指して努力するのでなければ、どのような工夫をこらしても、それは、戦争の可能性の危うい隠蔽に過ぎない。現実の政治は、力の放棄を目指す宗教的な境地とは異なる力の次元で動いている。しかし、そうであっても、宗教的な境地への畏敬の念を失えば、人類に未来はないだろう。

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日常感覚の思考

「ことばをめぐる哲学の冒険」 長谷川宏

本書は「愛」「誕生」「亡霊」「平和」「旅」という五つの言葉を巡るエッセイ。長谷川さんと言えばヘーゲルの研究・翻訳で知られているが、この本では日本の古典文学からの引用が多い。あとがきによると、最近の長谷川さんの興味が日本思想へ向いているためらしい。

「愛」の章は、井上陽水の「愛は君」の言及から始っている。井上陽水の1stアルバム「断絶」に収録されている曲で、出だしから「愛は・・・」と続くのが印象的だった。「古事記」や「万葉集」にあらわれる愛・恋には、苦しさやつらさや、不可思議さや、狂おしさを内にふくんで、その核には喜びがあると著者は述べている。

「亡霊」の章では、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」が紹介されている。ト書きに「ドロドロ」が頻繁にあらわれ、最後も「ドロドロはげしく、雪しきりに降り、この見得にて 幕」で終わっている。亡霊と化け物の違いについて、柳田國男は、1.化け物は出る場所が決っているが亡霊はどこにでも現れる、2.化け物は誰彼構わず出てきておどかすが、亡霊は怨みのある相手の前にしか出現しない、3.化け物はおもに明け方か夕方の薄暗い刻限に出てくるが、亡霊は夜更けて丑三つ時に登場すると書いている。「源氏物語」の六条御息所の生き霊や菅原道真の死霊は、平安朝においては夢や幻ではなく、現実に現れる共同の幻想だった。時代が下った時期における亡霊はもはや現実のものではなく共同の幻想とは次元が違う、個と個との関係性のうち現れる夢幻となっていった。

「平和」の章では、アリストファネスの喜劇のつぎにカント「永遠平和のために」が紹介されている。その間には二千年以上の時間が隔たっている。この二千年の間には、戦争がなくなることがなかった。平和を願う市民の声が大きくなれば、戦争がなくなるとはカントは考えていなかった。民の声とは離れたところで戦われるのが戦争であり、民の声もひたすら戦争反対に向かうものでもなく、戦争願望、戦争賛美に流れることもまれではなかった。カントにとって、戦争を否定し平和を肯定する根拠は、一人一人のうちにある道徳的理性に求められなければならなかった。時代の流れに沿っているかは第一義の問題ではなかった。どんなに迂遠に見えようとも、どうやって戦争のない平和な世界への道筋をつけるかにカントの思考は集中していた。迂遠さに耐えて筆を進めることがカントにおける平和への情熱のありようだった。

カントの平和思想の根底にあるのは、平和こそが道徳的であり、戦争はあくまで非道徳だというゆるぎない価値判断だった。そしてそう判断する根拠は、人間一人一人が戦時にも平時にももちつづけているはずの道徳的理性に求められた。人間は道徳的理性だけで出来ているわけではなく、非道徳的な悪や非理性的な欲望も人間のうちに同居しているから、道徳的理性の声が聞こえなくなることも珍しくはないが、最終的には道徳性と理性が勝ちを占める。そうカントは信じ、信じたからこそ、一見迂遠にも非現実的に見える永遠平和を現実の世界で実現可能な構想として提示したのだった。

次に、小田実の「難死の思想」とマリオ・リゴーニ・ステルン「雪の中の軍曹」が紹介される。イタリアの作家マリオ・リゴーニ・ステルンは、第二次世界大戦で、イタリア軍の軍曹としてロシア戦線に配属され、1942年から1943年の冬にかけてドイツ・イタリア同盟軍は敗走を余儀なくされた。食糧が乏しくなったイタリア兵は、ロシア民家に押し入って食糧を調達しつつ敗走を続けた。ステルンは次のような経験をした。民家に飛び込んだところ、そこにはスープをすするロシア兵がおり、間近で敵・味方が顔を合わせた。そこにいた農婦にステルンは「食べ物を下さい」とロシア語で言った。農婦は黙って、ステルンに食べ物を渡した。ロシア兵はだた見守っているだけだった。食べ終わるとステルンは「ありがとう」と言い、農婦は「どういたしまして」と答えた。ステルンは出口に向かい、戸口にあった蜜蜂の巣をひとつ貰いそとに出た。銃弾が飛び交うことがなかった。ステルンは「少しも異常だとは思わなかった」。ステルンは日常感覚が戦争の非日常性を押さえ込むことを自然なことだと言う。

敵地の農家で、殺し殺される関係を超えた和合の時を過ごすことによって、生きること、生きようとすることこそ人間にとって自然なことだという平和の思想に行き当たる。描かれた情景にも、作者の心の動きにも、希望があり、生きる喜びがある。現代の戦争が日常生活をはるかに超えて聳え立つ巨大な構造をなすのにたいして、日常感覚に根ざす平和の思想はあまりにも小さいが、生きてあるというそのことに意味があり、生きてあるそのことに価値があるとする穏やかな日常感覚が人びとのうちに消えずに残っているかぎり、戦争の合理性にも粗暴さにも一定の歯止めがかからざるをえないのである。

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空無への指向

「シモーヌ・ヴェーユ伝」 ジャック・カボー

今年の8出版社共同復刊で以前から欲しかった「シモーヌ・ヴェーユ伝」があったので買った。シモーヌ・ヴェーユはキリスト教的霊感のなかで生まれ、成長し、つねにそのなかに留まっており、「死の瞬間が生の規範であり、その目標である」と信じ、文字通りの清貧の精神で生きた。兄のアンドレ・ヴェイユは数学者で、「ブルバギ」の結成メンバーだった。この本のなかでは、兄は子供の頃に登場するだけである。この本は、シモーヌ・ヴェーユの「生きられた経験」を辿っており、伝記的事実よりその思想のほうに重点が置かれている。

哲学の大学教授資格試験に合格後、シモーヌ・ヴェーユは女子高等中学校の哲学教諭となり、授業の合間に、「革命的なアナーキスト」として組合活動に熱中する。そのころは「赤い処女」と呼ばれていたいたそうだ。大学教授資格者であり、体が弱い彼女が1年間工場で労働者として働く。労働者と同様に生活することを彼女は望んだ。

社会それ自体は、これを人間が支配するにいたらないかぎり、ひとつの自然力であり、人間にとって他の自然力と同様に盲目であり、同様に危険である。現在、この力はわれわれのうえに、水、大地、空気、火よりも苛酷なかたちでのしかかってくる。社会の個人への服従、これこそ真の民主主義の定義であり、また社会主義の定義でもある。

シモーヌ・ヴェーユは休暇をとり、スペイン内戦へ参加するためバルセロナへむかう。戦いの最前線へいった彼女は、武器の取り扱いが上手くできないため彼女が入った隊には有効な協力者とはならなかった。シモーヌ・ヴェーユは炊事をしているとき、油鍋に片足をいれ、火傷をして病院へ転送される。帰国後、彼女は「革命が不可能なのは、革命の指導者たちが無能だからである。革命がのぞましいくないのは、指導者たちが裏切り者であるからだ」と手紙に書いている。

工場の労働体験とスペイン市民戦争への参加の後、シモーヌ・ヴェーユは神秘的な体験をする。小さい頃続く、猛烈な頭痛のなかで彼女は「不幸を通じて神の愛を愛する可能性」を理解する。

空間は裂けて開きました。精神は片隅に打ち棄てられた惨めな肉体から逃れ出し、空間のそとにある一点に運び去られました。しかし、その一点は視点ではなく、そこからは展望というものはなく、しかも展望がないままに、わたしたちの可視的な世界がその真実の姿において眺められるのです。

空間全体は、たとえ耳に入る音があるとしても、濃密な沈黙によって満たされました。この沈黙は音のない沈黙ではなく、感覚の積極的な、音よりも積極的な対象であり、当初からわれわれを腕にいだきつづけている<愛>の言葉、そのひそやかな言葉でした。

シモーヌ・ヴェーユは、創造主との遭遇を次のように書き留めている。

肉体的な強度の苦痛に襲われた瞬間、自分にはその愛に名を与える権利はないと思いながらも、愛そうと努めておりましたとき、心の準備など少しもしておりませんでしたのにわたしはひとりの人間の現存よりずっと人間的で、確実で現実的なひとつの現存を感じ取ったのです。それは感覚にも想像力にも近づきがたく、愛するひとのこのうえなく優しい微笑を通して現れる愛にも似たものでした。

ナチがヨーロッパ各地を侵攻した為、シモーヌ・ヴェーユは、両親とともにニューヨークへ渡る。ニューヨークで彼女は、祖国を離れたことを悔い、恐ろしいほどの頭痛に苦しみ、食事も口にせず、部屋に籠もっていた。このニューヨーク滞在時に、シモーヌ・ヴェーユの「神学」は明確なものになっていく。「<愛>はすべてに同意し、すべてに同意する人間にしか命令しない。<愛>はひとつの放棄である。神は放棄である」。これがシモーヌ・ヴェーユの「神学」の中心概念であると著者は述べている。

神がわれわれに与えたこの存在性は、非存在である。ただわれわれはそれを知らないだけだ。もしわれわれが非存在をのぞむなら、われわれはすでにそれをもっている。それに気づきさえすればよい。
われわれの罪は存在をのぞむことにあり、われわれへの懲罰は存在していると信じることである。贖いとはもはや存在しないことをのぞむことである。われわれにとって救いとは、われわれが存在しないことを見きわめることにある。

われわれが非存在であることをわれわれに教えるために、神はおのれを非存在としたのである。

シモーヌ・ヴェーユは祖国フランスへ戻ろうとして、ロンドンへ行く。ロンドンでは、いまフランスは食糧が不足しているといって、あまり食事を取らなかった。彼女は自由フランス国民委員会に参加して、解放後のフランスの諸制度の草案等を書いていた。彼女は最後まで洗礼を受けなかった。シモーヌ・ヴェーユの精神的苦悩は終局に近づき、1943年4月には衰弱がはげしくなり入院する。病院において、彼女は食事を口にすることはなかった。必要欠くべからざるものを断つことが、彼女にとって厳正な社会的な義務となったと著者は書いている。8月、サナトリウムに転院するが、やはり食事は拒否し続け、「自分としてはフランス人の苦しみをともに味わいたいのだから、食事をとるわけにはいかない」と述べたそうだ。8月24日、シモーヌ・ヴェーユは静かに息を引きとった。34歳だった。死亡証明書には「栄養失調と肺結核による心筋層の衰弱から生じた心臓衰弱」と書かれているそうだ。

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翻訳と雑神

「翻訳と雑神」 四方田犬彦

ドゥルシネーア赤・白と同時に刊行されて、2冊を買ったが、ドゥルシネーア赤「日本のマラーノ文学」はさくさく読めたのに対してドゥルシネーア白の本書は読むのに時間がかかった。その間に、「マドンナ」、「谷中」と「イカ干し」を読んでしまった。時間がかかった理由は、最初の論文「ドゥルシネーア白」と後の論文のつながりがよく分からなかったし、最後の吉増剛造論は僕にはさっぱり分からなかった。引用されている吉増さんの詩は輪を掛けて理解できなかった。金素雲論だけを集めたらもう少し面白かったのかもしれない。といっても僕はあまり韓国文学に興味がないので同じかもしれないが。戦前の朝鮮半島の文学の話で、いきなりフランスやイタリアの文学のことがでてきたりして、どういうつながりがあるのかと考えてしまい、僕にとってはとても難解な本だった。本を読むことが職業ではないので無理して読む必要はなかったが習慣で読み出した本は終わりまで読むことにしている。難解な四方田さんの本を読むのはしばらくお休みしようと思う。

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イカ干しは日向の匂い

「イカ干しは日向の匂い」 武田花

本書は「仏壇におはぎ」から4年ぶりの武田花さんのフォトエッセー集。久し振りに神田へ本の買い出しにいって、三省堂で見つけて、帰りの地下鉄のなかであらかた読んでしまい、家で写真を見直した。この本を電車の中で読んでいると、思わずニタニタというかニヤニヤするような文章があるので困った。電車の中でおじさんがニタニタ本を読んでいる姿は他の人はあまり見たくないと思う。それで、ニタニタするのをじっとこらえていた。「インドのホテルでドキドキ」は笑えた(実際は電車の中なので笑っていないが)。こういう本は電車の中では読まないほうがよいと思う。電車では、小難しい本を読んで、回りのひとを煙に巻くに限る。

武田さんの写真は写真集「眠そうな街」を見てから好きになった。ほとんど人が写っておらず、鄙びた街の写真が多い。また、猫の写真も多い。武田さんは縦位置の構図が多いように思う。この本の作りは縦位置写真に合わせたのかちょっと縦長だ。電車に乗っての小旅行という感じの写真で、どこの街かがわかるものは少ない。武田さんが行く街は寂れているところが多いようで、東京のようにいつでも食事ができないことがあるので、おいしそうなものを見つけたらお土産として買っておくそうだ。

旅先で困るのは食事だ。店がない。あっても、閉まっていたり、廃屋だったり。そういう鄙びた、さびしい場所にかぎって、写真に撮りたくなる景色があるものなのだ。そこで、途中でおいしそうなものを見つけたら、とりあえず土産のつもりで買っておくことにした。そうすれば宿でも食べられるし、港で潮風に吹かれながら、あるいは空き地の草の上で、花咲く木の下で、その土地のものを味わうことができる。景色も一緒に体に染み入るような心持ち。干し魚や竹輪ならば、野良猫にも分けてやれる。

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谷中、花と墓地

「谷中、花と墓地」 E・G・サイデンステッカー

本書は、川端康成、谷崎潤一郎、「源氏物語」の翻訳で有名なサイデンステッカーが日本語で書いた随筆が34篇収められている。「うえの」に連載していた随筆うちの約3分の1だそうだ。サイデンステッカーは東京にいるときサイデンさんと呼ばれていたそうで、ここでもサイデンさんと呼ばしてもらう。サイデンさんは東京の湯島に住み、梅、桜、藤、朝顔を愛でるアメリカ生まれの文学者でる。この随筆を読むと日本人以上に日本人らしい。晩年は東京とホノルルの往復をしていた。ホノルルは退屈な街だそうだ。サイデンさんにとって面白い街は東京とニューヨークだという。

サイデンさんは、カタカナ言葉が嫌いと書いている。明治時代には外来語を的確な日本語に翻訳して、逆に中国へその言葉を輸出するようになった日本だが、最近では英語を適当な長さで切り取り、そのまま安直にカタカナで使うことが多くなった。アメリカ生まれのサイデンさんでもそのカタカナ英語の意味が分からないときがあるという。創造力の欠如が言葉をだめにする。

サイデンさんは、東京のお祭りの見せ物化にも心を痛める。とくに三社祭は、もう見るに堪えないという。担ぎ手が非力になったり、女性の担ぎ手が多くなったためか、御輿が落下するということがあったらしい。サイデンさんにとっては、それはありえないことだった。

サイデンさんは、小津監督の映画をこよなく愛する。次に好きな映画監督は成瀬巳喜男さんで、黒澤明監督はそのずっと後方にくるらしい。愛する文学者は、永井荷風で、敬愛するのは紫式部ということだ。僕は小津監督の「東京物語」とかよりも黒沢監督の「七人の侍」のほうが好きだし、永井荷風はいろいろな作品や評伝を読んだが僕にはどうも好きになれない作家だ。といってもこの本はとても良い感じの随筆で面白かった。

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オーネ・ツカー

「マドンナの引っ越し」 池内紀

土曜日に寒い中、寒い試合を見てしまいまた風邪がぶり返して、体調不良。このところ風邪をひくと池内さんのエッセイを読む習慣がついてしまった。だんだん、池内さんのエッセイで読んでいない本が少なくなってきているので、風邪をひいたときに読む本を探さないと。

この本のなかで紹介されている逸話は、最初読んでいてほんとうにあった話かと思っていた。ところが、後書きを読むと「一人旅はヒマなので、あらぬことを考えたり、よしない空想にふけったりする。現実の旅以上に旅先で思ったことが、もう一つの旅になる」とあったので、この本の旅行記は、ガイドブックに載っていないもう一つの旅の記憶だと思う。

「祭壇画物語」はミステリーじみて、すっかり騙されてしまった。東欧の小さな街のホテルではありえない話ではないと思えた。人体の剥製を作るというのは、本当かなあと思ったけど。「トーマス先生の世界旅行」もありそうな話で面白い。池内さんが旅している街は、普通の観光で行くところが少ないので空想の物語でも信じてしまう。今回は上手くやられたという感じだ。

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ちぇいるぎょっぼ

「日本のマラーノ文学」 四方田犬彦

「パッチギ」とは韓国語で頭突きの意味だったとは僕は知らなかった。プロレスラー大木金太郎の原爆頭突きはまさに「パッチギ」だったのか。といってもキム・イル大木金太郎を知っているひとも少なくなったと思うが。マラーノとは、中世スペインでキリスト教へ改宗しながらユダヤ教を密かに信仰したユダヤ人を指す言葉だ。本書では、自分の出自を隠しあるいは偽りながら活動する文学者・芸能人を示す言葉になっている。それは被差別部落出身者、在日朝鮮人、日本人でありながら中国人・朝鮮人のふりをする人たちである。

被差別部落出身の中上健次は、はっきりと述べてはいないが、小説の中では「路地」と呼ばれている場所がその場所であることはわかる。松田優作の場合は、その出自を最後まで語ることはなく、ニヒリズムとシニズムの仮面を被り続けることによって、日本映画を代表するアクションスターへの道を歩んだ。

立原正秋は、和服姿で鎌倉を散策し、骨董や能を愛でるイメージが強い。立原正秋は生前から、朝鮮の血が流れているのを公言していたそうだ(これも僕は知らなかったが)。日本語で書く作家として、朝鮮人を両親として生まれてきたことをどう受け止めてきたかということについて語られることがなかった。立原正秋は「在日朝鮮人作家」という範疇には入っていないと思う。僕も含めて、そのイメージから誰もが日本人だと思っていたに違いない。ここで筆者は、徹底した日本回帰が在日文学者としての立原正秋固有のあり方であり、朝鮮文化からも疎外されて育った知識人の心理的代償行為であったと述べている。

この本のなかで、帷子耀という詩人が紹介されており、興味深かった。60年代後半から70年代前半、10代で「現代詩手帖」を舞台に活躍しその後全く詩を発表しなくなった帷子耀を筆者が訪ねる。帷子耀は現在、甲府でパチンコ店を経営している。自分の父親は韓国人で、リヤカーを曳きながら廃品を回収し、父親はそれを恥じることがなかったことが自分の自慢なのですと筆者にむかって語った。なぜ詩を書くのを止めたのかという質問には、もう自分に才能がないとわかってきたし、それ以上は、勉強しないと書き続けることは無理で、自分は勉強が嫌いで、勉強をしてまで詩を書きたくなかったと答えている。帷子耀は、自分が書いたものや刊行したものをなにひとつ所有していなかったそうだ。筆者は、彼の率直さに驚くとともに、冷静な自己分析に感嘆したと書いている。

冴えかえる
菊と刀をふくんでか
咲きそそる傷 非戦闘員の腑に

あえて默在すあえぎに
まっとうする抒情七つのあえかなる夏
薄明をぬるましく書く<三光・・・>と
ハネムーン死ぬ爪たちかこみ

尻を追う!
宰相よ死ね唱道の人差指はみずみずしき肉
青眼もいわれなき刻なまじまぬ
霊魂婚礼在せばならず

しんかんと鳩胸しぼるブランコの
死に花真昼
まむけるわたし

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真珠色の風景

「中原中也 帝都慕情」 福島泰樹

歌人の福島泰樹さんが、中原中也が住み歩いた東京の町々を歩いて写真を撮り書いたのが本書。高田馬場から始り、府下戸塚町、田端、浅草、中野、高円寺、高井戸を歩きながらそして書いた。福島さんが探し当てた詩人の足跡も、すでに記憶と画像のなかにしかない。

中原中也が東京を歩くといっても、円タクをすぐ使うため東京の地図はわからなかった。中原中也が東京で一番好きな場所は、浅草の吾妻橋のあたりの風景だった。吾妻橋の袂の公園のベンチにすわり、サッポロビール(当時)の工場を眺めながら「ここの夕暮れの眺めが一番ええ」と「東京で一番景色がええのは此処だ」と言ったそうだ。

唯一の友人の小林秀雄と愛人の長谷川泰子に去られた中原中也は、歩行と読書と日記執筆で必死に生きる。大岡昇平は「傲慢な詩人が世の中にどうにもならぬことがあるのを知ったのは、泰子を通じてである。この時救済者として現れるのは神の観念である」と書いている。福島さんが中原の詩に惹かれるのは、求道の詩だからだ。「盲目の秋」は、福島さんがいま最も好きな作品で、声に出して読まなければ駄目だと述べている。

これがどうならうと、あれがどうならうと、

そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういふことであらうと、それがどいふことであらうと、

そんなことはなほさらどうだっていいのだ。

人には自恃があればよい!

その余はすべてなるまゝだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、

ただそれだけが人の行ひを罪としない。

中原中也は長男の文也が亡くなった後、神経衰弱が嵩じ、奇妙な行動をとるようになる。中也は、文也の位牌の前に進み、「頭を下げ、合掌し、位牌を眺め、合掌し、頭を下げ、線香を燃え尽くす前にとりかえ、それをくりかえし、時どき、ハーッと息を吐いた」そうだ。また、1階の廂の上にしゃがみこんで静かに陽に当たっていたそうだ。そして、中也は千葉の中村古峡療養所に入院させられた。

中原中也は多分「家の馬鹿息子」だった。親から妻子を養い、お手伝いを雇うだけの送金をうけ、市電には乗らずタクシーを使い、飲み歩いた。しかし、中也は詩を残すことで充分親孝行をしたのだと思う。福島さんは、中原家の犠牲の上に立って、私たちは、中原中也の詩を愛誦しうるのであると書いている。小林秀雄は「中原中也の思ひ出」で「私は辛かった。詩人を理解するといふ事は、詩ではなく、生まれながらの詩人の肉体を理解するといふ事は、何と辛い想ひだろう」と述べている。

おまえへはもう静かな部屋に帰るがよい。

煥発する都会の夜々の燈火を後に、

おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。

そして心の呟きを、ゆつくりと聴くがよい。

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小町放浪記

「なぜかいい町 一泊旅行」 池内紀

やっと熱が下がったがまだ調子があまりよくない。体調不良のときは、重たい本(内容と物理的重さの両方)を読む気にならないので、軽めのエッセイを読むことにしている。そういうときは池内紀さんの旅行記がぴったりだ。今回の本は日本の16の小さな町を北海道から九州まで旅をした記録。本の帯にはひとり旅の名手が訪ねた16の町の記憶と書いてある。

16の町のうち僕が行ったことがあるのは、上川町、岩内町、津和野町だけ。上川町は、札幌から日帰りで旭岳から黒岳を縦走した時に寄った。層雲峡あたりに泊まるのが普通だと思う。岩内は車で原子力発電所や資料館を見て回った。やはり泊まらなかった。津和野には森鴎外のお墓を見に行った。鴎外は11歳の時に故郷を離れてから一度も津和野に戻らなかったそうだ。

平成の大合併で、地方の小さな町々は大きな変化に見舞われている。由緒ある名前が消えていっている。池内さんは、へんてこな名前はともかく、成り立ちや性格がまるきり違う市町村が、単にとなりあっているからという理由で一つになる、必要性と必然性がまるでわからないと書いている。そして何よりも痛々しいのは、公民館や地域センターがこれまでの努力にもかかわらず閉鎖されるところが多いことだ。

行政の現場にいる人々は、肌身で感じて知っているはずだ。風土とともにつちかわれてきた習わしや文化は、法令一つでくっついたりしない。行政単位の小さいほうが、きめこまかな手が打てる。財政的にも工夫が生かせるし、節約できる。誰もが自分の財布の経験から承知しているのではあるまいか。とびこんできたボーナスは、ムダ使いするのが関の山なのだ・・・・小さな町も変革の波が押し寄せている。ただ行き過ぎていくだけの人間の正義派ぶった意見や予測は、たとえ正論であろうとも、いささかはしたない。ここでは、その地の暮らしと人々のあり方、受けた印象と記憶を優先した。

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復性復初

「丸山眞男との対話」 石田雄

本書は、著者と丸山眞男との「想像上の対話」で、実際の対話があるわけではない。本書には筑摩書房「近代日本思想史講座」第2巻『正統と異端』がなぜ未完となったかの論文がある。30数年間、著者と丸山眞男がこの『正統と異端』を発刊するため研究会を続けて結局刊行されずに終わった。竹内好が「丸山は筑摩を国営出版社とまちがえているんじゃないか」といったことがあるそうだ。いちど途中のかたちでも出版したらどうかと編集者が提案したのにたいして、「完全主義者」丸山眞男が許可しなかった。僕はこの論文を読んでもなぜ刊行できなかったかの理由が分からなかった。それは丸山眞男のわかりにくさなのかもしれないが。

丸山眞男の死後、色々な批評がでたが、「本店」の日本政治思想史よりも、「夜店」の60年安保前後の現実政治に関する論文に対する批評が多かった。また、晩年の「古層」論に対する批判もあったが、「古層」論のまとまった著作が刊行されなかったため尻切れトンボのようになった感じがする。著者も丸山眞男の日本政治思想史研究を「未完のプロジェクト」と書いており、「古層」論には無理があるとも書いている。実際、丸山眞男の著作は、個別に書いた論文を集めたもので、健康上の理由もあってかアーレントの「全体主義の起源」のような日本政治思想史の体系的な著作は無い。また、丸山眞男は現実の政治に関しても60年代半ばから発言することはなくなった。だからといって丸山眞男の著作を読む必要がないということにはならないと思う。

丸山眞男は、広島で被爆したことを生前殆ど発言せず、また「原爆手帳」を貰わなかったそうだ。丸山眞男は8月9日広島市内に入り、その惨状を実際に見ており、写真もあるそうだ。丸山眞男が「原爆手帳」を貰わず、原水爆禁止運動にも積極的にコミットしなかったのは、「日本的なもの」にたいする拒否反応だったようだ。「理念としての民主主義は永久革命」と言っていた丸山眞男は、日本には市民社会が無いという認識があるのか、論文でも「市民社会」という言葉を使わなかった。60年代半ばから現実の政治にたいする発言が無くなったことにも、日本の「市民社会」「大衆社会」「マスコミ」に対する諦念が僕には感じられるが実際にどうだったかは分からない。

僕が最初に丸山眞男の著作を読んだのは「現代政治の思想と行動」だった。大学の生協に、法学部の教科書として平積みされていて、面白そうだったので買って読んだ。その後も刊行されている著作を読み続けた。「丸山眞男集」を読んでも何か物足りなさが残るのは、体系的な著作が無いためのように思う。それは丸山眞男に限ったことではなく、日本の人文科学者・社会科学者に共通することのように思われる。

最後に、丸山眞男の今日的意味として石田さんが述べているとこから引用する。

すなわちその方法は、一方では原理論の公式的適用による教条主義に陥ることなく、つねに流動する現実に対応する弾力性を保ちながら、他方では現実に埋没して現実主義の名による現実追随に陥ることなく、動かない理念にむけた志向性を持ちつづけるという、内面的緊張をはらんだ体系的思考の方法である。
この思考方法は、丸山が西欧と非西欧の知的遺産を血肉化し、日本の現実ときびしく対決する中で築きあげてきたものである。この知的遺産の血肉化の蓄積の上になされた業績には名人芸というべき面があり、これは他人が容易に真似できるものではない。しかし、このような思考方法を身につけることは、つねに要請されるだけではなく、今後いっそう重要さをましていくと思われる。

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アニマの助かりのために

「言葉果つるところ」 石牟礼道子・鶴見和子

水俣のヘドロの海を森となし石仏を置く次の代の夢

本書は水俣病患者を描いた「苦界浄土」等の著者の石牟礼道子さんと鶴見和子さんの対談の記録。「アニミズム」を主題として、歌や俳句、水俣や天草の風土、石牟礼さんの小説「アニマの鳥」について話をしている。弟の対談の名手鶴見俊輔さんに負けず鶴見和子さんの対話は面白い。対談者は和子さんのことを少女のようということが多い。この本でも、大学の授業で「水俣」を「みずまた」と読んで学生から笑われたとあっけらかんと話すところにその片鱗が見える。

「アニマの鳥」は、石牟礼さんが水俣病自主交渉の座りこみのとき連想された「天草の乱」での隠れ切支丹の闘いをアニマへの祈りをこめた長編小説である。チッソ本社での水俣病自主交渉で、チッソの幹部に私たちも水銀を飲みますから貴方たちも水銀を飲んで一緒に死にましょうといったことや、水俣市の発展のために水俣市民5万人の命と126人の水俣病患者の命とどちらが大事かと言われたということを読むと水俣病問題の凄まじさが窺われる。地球的規模の環境問題については、いま水俣なんて小さいことは考えないで地球の問題を考えましょうという風潮があり、それが恐ろしいと和子さんは話している。そして石牟礼さんは、あれはじつに口当たりのよい言葉ですねと語っている。

人間と自然のすべての生き物、生きてるものも生きてないものも含めて、自然は生きてる。おおいなる生命体だと思う。石だって生命体の一部ですから。だからこのおおいなる生命体をその一部である人間が壊すということが始まりなのね。人間がそれを始めることによって、人間とその他の生き物、その他の事物といっしょに、ともに支えあって生きていた、その姿を壊した。それが始まりだから、どうやってそれをもう一度、人間とその他のあらゆるものとがいっしょに、ともに生きていける姿にできるか。できるかできないかわからない。

アニマの助かりのためには、切支丹がキリスト教の教理を仏典の言葉に翻訳して教理を教えたなかで、魂の救済のためにこの教えにおすがりしなさい、生きている今生の苦しみは後世の、後生へ行くための捧げ物であるからということである。「アニミズム」をどうとらえるかということについて石牟礼さんは次ぎように述べている。

山も川も海も精霊たちの宿る聖なるところであって、得体のしれぬ化学物質でこれ以上毒まみれにしてはならない。ここを無神経に汚しては、自ら生命の母層を殺すことになる。あらゆる文明論の前に、それをいうべきではないだろうか。エコライフをと軽く言ってもよかろうが、山川草木、鳥獣魚類という生命現象と伝統的な文化というものについて、わたしたちはもっと謹しみぶかく、恭くありたい。まだ人にも知られぬうちに絶滅しつつある種が、限りなくあるときく。痛切な念いをこめてお話しあった。それがわたしのアニミズムである。

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禅教・顕密・聖道浄土

「鎌倉仏教展開論」 末木文美士

末木文美士さんの「鎌倉仏教形成論」に続く、鎌倉期の仏教思想展開に力点を置いた論文集が本書である。前著で言及できなかった鎌倉後期の問題を説き及ぶことで、鎌倉期の仏教思想の流れを展望できるようになったと著者は述べている。本書は3部に分かれており、1部では全体的な問題、2部で13世紀中期の問題、3部で13世紀後半から南北朝期における問題をそれぞれ論じている。1部は、常識となっている鎌倉仏教観が近代以後の仮構であることを示し、2部は本覚思想の問題並びに法然と栄西について検討し、3部は日蓮の真偽未決遺文、夢窓疎石、「愚管抄」、「神皇正統記」並びに慈遍を取上げている。

この本に収められている論文は、仏教・仏教思想の専門家向けに書かれているもので、一般向けの解説書ではないため、僕のような専門外の人間にとって、細かい議論についてはよくわからない(例えば日蓮の真偽未決遺文についての論考)。それでも、日蓮や夢窓疎石の当時の権力との関わりの対照的なところや栄西の禅宗への取り組みなどが興味をひいた。「興禅護国論」の偽撰説に関するところで、栄西が50歳前後から禅宗を学んだため、禅の習得が完全でなく、その理解におかしなところが有っても責められないとあり、先駆者の苦労が窺われる。

結章で、鎌倉新仏教中心史観が批判されるようになり、新資料が発見されると同時に、神仏習合・密教・諸宗兼学などが再評価されており、中世宗教の研究動向は大きく動き、中世の豊かな精神世界が明らかになりつつあると著者は述べている。

鎌倉新仏教中心史観は、単に客観的な歴史研究の理論としてできたものではなく、明治以後の近代化の中で、どのような日本の仏教を再構築するかという課題に対応する、きわめて実践的な意義を有するものであったということである。そこで、新仏教の合理的な面がクローズアップされるものとなるそれ故、その崩壊はそのまま近代化の行き詰まりと、次の段階への模索と対応するものとなる。もちろん、合理的な近代主義が行き詰まったからといって、そのアンチテーゼとして前近代の非合理主義を持ち出すだけでは、単に懐古的な反動にしかならないであろう。中世的な発想の特徴をあきらかにしていくことは、単にそれだけを孤立的に取り出して賛美することではなく、それを思想史の流れの中にもう一度戻して、思想史全体の捉え直しに向かうことがなければならない。

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肉弾で歌ふ

「中原中也 悲しみからはじまる」 佐々木幹郎

札幌のヨドバシカメラへいった帰り、何気なく隣の紀伊国屋書店へ入ったらこの本と「中原中也帝都慕情」が目について買ってしまった。「理想の教室」シリーズのひとつで、高校生が読んでわかりやすく、3回の授業で入門から深い世界へと帯に書いてあった。

佐々木幹郎さんは、「中原中也全集」の編集を行っており、この本にも生原稿の写真が掲載されている。佐々木さんは推敲の課程や詩の成立時期の考察を、考古学者の遺跡発掘に準えている。原稿用紙の種類、筆記用具の使い方(万年筆、毛筆、鉛筆など)などで詩の成立時期を推測するのは推理小説の謎解きのようだ。

中原中也は上田敏や鈴木信太郎の訳詩を書き写すことで詩を学んでいった。それについて、佐々木さんは手を使って書き写すことにより、詩のリズムや句読点の置き方などが身体に入ってくることがあったと推測している。

詩の世界は言葉というものの面白さをどのように引き出すかが、いつも問われます。詩は特に言葉のイメージとリズムを大事にします。そのことに近づくために、本を読むだけではなく、手で書き写すことが大事だったという、かつての時代の素朴な原則をまず確認しておきましょう。このことはいまでも重要です。

「悲しみ」はひとがひとりであるときに襲ってくる。それがふたりでいるとき、あるいは大勢のひとといるときに「悲しみ」を感じるとき、そのなかでひとりになっている。日本人の「悲しみ」の特徴は織り目のように水平に広がっていると佐々木さんは述べている。一枚の布の尖端がほころびはじめ、その織り目の細い一本の繊維が風に揺らぐような場所から言葉が生み出されている。中原中也の「汚れつちまつた悲しみに・・・」では、無垢な悲しみなどなく、もっと普遍的なものへ向かっていることがわかる。中原中也の詩に「無垢」や「純粋」を見つけようとするのは間違いだと佐々木さんは述べている。

中原中也の子の文也は、小児結核のため2歳で亡くなる。中原の日記帖には、何重にも線を引いた落書きがある(この日記の写真もこの本にある)。文也の落書きだそうだ。自分の日記に落書きをされても、怒らずに寧ろ目を細めて喜んでいたに違いない中原中也の顔が思い浮かぶと佐々木さんは書いている。その後、中原中也の精神は極度に不安定になる。

中原中也にとっての子どもとは、中原中也自身のことでもありました。この世が彼を置いて、ただいっさんに走りすぎるものならば、どんなに幸福だったことでしょう。
そしてその光景を、文也の残した何のためらいも不安もない落書きの線のように、傍若無人に描くことができれば、どんなに素敵だったことか。
それこそが中原が求めて、ついにたどりつけなかった「言葉なき歌」であり、また「在りし日の歌」でもあったようにわたしは思います。

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裏通りの人びと

「モーツァルトの息子」 池内紀

この本の中で紹介されているひとたちで知っていたのは、カフカの恋人だったフェリーツェだけ。あとの人は初めて知った。歴史の表舞台で活躍したとはいえない「史実に埋もれた愛すべき人たち」30人の文学的ポートレート。「姿の消し方」を改題して文庫化したのが本書。

デュッセルドルフの殺人鬼キュルテンは声が聞こえたそうだ。一方は現実の声、一方は夢の声。「そんなふうに私は半身ずつ別だった」。人間における悪については「単に悪への喜びから犯罪を犯すものはいない。つねに何かがこれに加わる。その何かは当人の咎ではない」。キュルテンは刑の執行まで好きな冒険小説を読んでいたそうだ。死刑について、彼は「しょせん死刑によって何か達せられるわけでもない。流された血が、犯罪者の血でもってつぐなわれるものかどうか疑わしい。大衆が求めるところの報復を行うだけではないのか」と言った。処刑の数日前、キュルテンは看守と談笑中にこう言ったそうだ。「首を落とされると困ることが一つだけある。首なしでは本が読めない」。

カフカはフェリーツェと5年の間に、2度婚約をし、2度とも破棄する。カフカ全集には「フェリーツェの手紙」の巻があり、もっとも厚い。原稿用紙に換算して3000枚をこえるそうだ。邦訳のカフカ全集を持っているが「フェリーツェの手紙」は全部読んでいない。500通あまりの手紙に対する返信は相当数あったと思われるが、カフカはフェリーツェからの手紙を一切残していない。フェリーツェは、カフカと別れたあとナチス・ドイツ時代にアメリカへ渡った。第二次大戦後、世界的なカフカブームがおこったとき、ある出版社が書簡の購入を申し出た。膨大な手紙の束をカフカの死後、30年あまり彼女は保管し続けており、ドイツからアメリカへも持ち込んでいた。出版社が手紙の束を運ぶとき、フェリーツェはこれが3度目のお別れといって、涙を流したそうだ。

この本を読むと、池内さんは、どうやってこれらの人びとを見つけ出したのかと感心してしまう。あとがきに書いてあったが、裏通りを歩くうちに勘というもができていいものが見つけらるようになったそうだ。ひとつひとつは長くはないが、そのひとの生き方がわかる文章だった。

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True End

「不可能性の時代」 大澤真幸

この本の序に「リアリティ・ソープ」という男女の実際の生活を「ドラマ」として放送する番組が紹介されている。また、フランスで放送された「ロフト・ストリー」という番組は、11人の男女をロフトに住まわせ、24時間の行動をだた撮影したもので、この番組の視聴率がサッカーのCLの中継を上回ったそうだ。さらに驚くことは、この番組の出演者を公募したところ、3800人の応募者があったそうだ。他人に見られること、監視されることを忌避しないというよりむしろ監視されることを望んでいるかのようだ。僕の通勤路の途中にあるアパートで、カーテンがなく外から中が見えている部屋があり、そこに若い女性が住んでいるのがわかってびっくりしたことがあった。カーテンを買うお金がないか(あまり考えられないが)あるいは節約しているということなのか事情はわからなかった。電車の中で化粧をするひとも、素顔から化粧した顔に変わることを他人に見られることが平気ということなのだろうか。大澤さんは次のように述べている。

われわれは、監視されていることを恐れ、そのことに不安を覚えているのではなく、逆に他者-われわれを常時監視しうる「超越的」とも言うべき他者に-まなざされていることを密かに欲望しており、むしろ、そのような他者のまなざしがどこにもないかもしれないということにこそ不安を覚えているのではないだろうか。私生活をただ映すだけのサイトや、「ブログ」のような私的な日記を公開するサイトが流行る理由もこうした欲望や不安を前提にしないと説明できない。あるいは、若者が、ケータイへの着信やメールを待ち焦がれるのは、自らが誰かのまなざしと配慮の下にあることを確認し、安心するためであろう。

自由を触発し、強制することにより、かえって自由は萎えてしまう。

本書では敗戦後の時代を、戦後の理想の時代、70年代以降の虚構の時代、95年を境とした不可能性の時代と区分している。オウム真理教の地下鉄サリン事件を虚構の時代の終わりとしている。理想の時代に取り上げられているのは「マイホーム(家族)」「テレビ」であり、虚構の時代では「酒鬼薔薇聖斗」「オタク」「ディズニーランド」「村上春樹」「オウム真理教」を取上げている。「酒鬼薔薇聖斗」の事件は1997年に起きている。

不可能性の時代は、インターネットと携帯電話の爆発的な普及と重なる。現代社会は、現実への逃避と極端な虚構化へと引き裂かれている。現実を秩序づける準拠点となっているのは、認識と実践から逃れてゆく「不可能なもの」である。それは直接には見えていない「不可能性」である。理想->虚構->不可能性という順で、基準的な反現実の反現実性の度合いは高まっている。また、現代社会には極限の直接性を志向するコミュニケーションへの強い欲望が、広く浸透しているのではないか。コミュニケーションの直接性の感覚は、携帯電話の場合に一層強くなる。調査によると「携帯電話の電波の入らないところにいると不安になる」者ほど、あるいは「着信がないか何度も確認してしまう」者ほど、ひとりでいること、ひとりで食事することを辛いと感じる傾向があるそうだ。つまり、携帯電話への着信が、あるいは電波が、友人とともにいることの代理となっている。

われわれは、今や、<不可能性>とは何か、不可能な<現実X>とは何かを、推定しうるところにきた。<不可能性>とは、<他者>のことではないか。人は、<他者>を求めている。と同時に、<他者>と関係することができず、<他者>を恐れてもいる。求められていると同時に、忌避もされている<他者>こそ、<不可能性>の本体ではないだろうか。
われわれは、さまざまな「xx抜きのxx」の例を見ておいた。カフェイン抜きのコーヒーや、ノンアルコールのビールなど。「XX」の現実性を担保にしている、暴力的な本質を抜き去った、「XX」の超虚構化の産物である。こうした、「xx抜きのxx」の原型は、<他者>抜きの<他者>、他者性なしの<他者>ということになるのではあるまいか。<他者>が欲しい、ただし<他者>ではない限りで、というわけである。

僕のようにケータイをあまり使わない人間にとって、ケータイを片時も離さず、通勤のラッシュのなかでも、歩きながらでもケータイを眺めているひとが不思議だったが、その理由のある部分がこの本を読んで理解できたような気がする。少年による特異な事件、オタクの美少女ゲーム、カルト宗教、グーグルの検索から現代政治まで、社会学者の射程が広がっていて大変だと思った。これだけのことに対して目配りしなければならないということが、現代社会を全体としてとらえることの困難さを示しているように思われる。2~5章が僕にはとくに面白く感じられた。

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風が吹けば桶屋が・・・

「疑似科学入門」 池内了

池内先生は僕が学生のころ隣の宇宙研究室に在籍しており、酔うと関西弁でよくしゃべるおっさんだった(失礼)。池内先生は最近研究者というより評論家のような感じで次々と本を出版している。その池内先生が、占い、超能力、霊、健康食品、環境問題などについて書いたのが本書である。

池内先生は、疑似科学を3つに分類する。第一種疑似科学として、「占い」、「超能力」、「心霊現象」をあげる。主に精神世界にかかわるもの。第二種疑似科学として、マイナスイオン、クラスター水や色々な専門用語を付けた健康食品等、科学を意図的に援用・誤用・乱用・悪用するもの。第三種疑似科学は、前の二つのタイプとちょっと違って、環境問題、電磁波公害、地震予知、BSE問題、遺伝子組み換え農作物などの「複雑系」の科学で、現代の科学では決着がまだつかないもの。これは疑似科学とは言えないときもあり結論は持ち越しになっている。

第一種疑似科学と第二種疑似科学は普通に考えるとおかしなことと理解できるが、第三種疑似科学については問題が複雑であり、普通の物理法則を単純に適用できない。それぞれ複雑系に対してはシミュレーションを行うが、最新型のスパコンを使っても気象予報は確率100%にはならないし、台風の進路の予測も外れることがある。物理の法則の特徴は、局所的、線形性、対称性で、現象をなるべく単純化したモデルとして扱う。地球レベルの環境問題では、モデルを単純化するのは難しく、また人間の活動も加わるので未来予測は不定になる。例えば、地球温暖化と二酸化炭素の因果関係は明確になっていない。温暖化によって二酸化炭素が増えるのも確かなので、二酸化炭素増 -> 温暖化なのか温暖化 -> 二酸化炭素増 -> 温暖化の加速なのかいまのところ確定できていない。ここで、池内先生は「予防措置原則」を提案する。原因や結果が明確に予想できないとき、不可知論に持ち込むのではなく、危険が予想される場合は、それが顕在化しないように予防的な手を打つべきだと池内先生は述べている。複雑系を逆手にとって問題を曖昧にし、地球環境問題は存在しないとするような論は、人類の未来を考えようとしない点で危険である。

最後に、池内先生は疑似科学に対する処方箋として「正しく疑う心」と「予防措置原則の重要さ」を挙げている。予防措置原則を「未来に負荷を持ち越さないために今どうすべきかを考える原則」と読み直せば、第一種疑似科学と第二種疑似科学にたいしても有効である。ようするに、わからないものが有ったとき、未知なものにすがったり、早急な解決を求めず、今ある地歩を固め時間を掛けて思考することが大切である。疑似科学かどうかを知る目安として、それをどんな人間が言ってるかを見て判断する方法がある。

テレビを見ていても、事件があれば必ず専門家が顔を出し、当たり障りのないことを述べているのにお目にかかる。そんな当たり前のことをわざわざ専門家に勿体ぶって言わせるまでも無いだろうと思うのだが、ときに極端な意見もある。検証抜きで、簡単に断定してしまう場合がある。特に、畑違いの分野に関しては全くの素人同然なのに、あたかもなんでも知っているかのように言い立て、疑似科学を振りまいている御仁がおられることに注意しよう。

権威主義的な科学者(科学者に限らないが)に共通しているのは、知識が欠けている者を見下し、「こんなことも知らないのか」と尊大に振る舞う。また、自分の意見が最善であり、他人の意見には耳は貸さない。何か批判されると「言論の自由」を妨げるなと開き直る。僕が知っている先生も、偉い先生ほど謙虚だった。池内先生も謙虚か謙虚でないかが科学者を見分ける初歩と書いている。

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人と人の間

「政治の約束」 ハンナ・アレント

「責任と判断」を読んだ後、この本を読み始めて読み終わるのにずいぶん時間が掛かった。書いてある内容が極端に難しいというわけではなく、やはり遺稿を編集したためか、内容も重複しているところもあり、本としてのまとまりがないように感じた。もともと「政治学入門」として草稿をドイツ語で書きためたいたものを英訳したのが本書。専門家でもないものが、遺稿を翻訳で読むのはそれだけでも難しい。アレントの生前発刊された本は、内容が難しくても本としての一貫性があったように思う。

本書がもし「政治学入門」として出ていたとしたら相当難しい入門書になったと思う。本書の大半は、ソクラテス、プラトン、アリストテレス等のギリシャ哲学者とギリシャのポリス政治についての記述になっている。今回は纏めるのが難しかったので殆ど引用。

古代ギリシャでは「政治の意味は?」という問いに対する答えは「政治の意味は自由」であった。20世紀の2つの経験(”全体主義”と”核兵器の使用”)を経た後の政治がもたらした災厄により、わたしたちの疑問はより根源的になる。すなわち「政治には意味があるのか」。今日、危険に晒されているのは人間なのか世界なのか。この問いに対して、人々がどのように回答するかわからないが、確かなことは、いかなる回答も非政治的であるということだ。なぜなら政治の中心にあるのは、人間ではなく、世界に対する気遣いだからである。

なぜそうなのかと言えば、人が一緒に集まるところではどこでも人々を寄せ集めると同時に互いに離反させる空間が生成されるからである。そのような空間はすべてそれ自身の構造を持ち、それは時間と共に変わり、私的文脈では習慣として、社会的文脈ではしきたりとして、公的文脈では規約、定款、規則として現れる。人々が集まるところではどこでも、世界が人々の間に割り込んでくる。そしてあらゆる人間的事象が営まれるのは、まさにこの中間的空間においてなのである。

自由について理解される内容が意味を変えるのは政治的な空間では当然となる。古代ギリシャにおいて、事業や冒険の意義が色褪せていき、公共空間で他者と交わることが生活のリアルな実質となり、自由な生の最も重要な活動が言論・自由な言葉へと移行する。ポリスにおいては、このことが決定的なものとなったが、これはなにかを始める活動の自由とは異なっている。語り合う自由は他者たちとの相互作用において可能となる。言論の自由とは、人は言いたいことをなんでも言って良いということではないし、一人一人がありのままの自分を表現する権利を持っているということでもない。重要な点は、誰も、ひとりでは客観的世界を十分に把握できないということである。

世界は多くの人間に共有され、彼らの間に横たわり、離反させたり結びつけたりするもので、人によって異なって現れ、それが理解できるのは、多くの人々がそれについて語り合い、意見を交換する場合に限られる。語り合う自由があればこそ、世界はあらゆる角度から客観的に見えてくる。言い換えるなら、世界は複数の観点が存在するときに限って出現する。つまり世界は、いついかなる時でも、こんな風にもあんな風にも見られる場合に限り、初めて世俗的事象の秩序として現れるということである。もしある民族や国民が、絶滅させられるなら、それは単に一つの民族や国民が死滅するということではなく、共通世界の一部が破壊されるということであり、世界の一側面が消えるということである。

厳密に言えば、政治の目的は「人間」というよりも、人間と人間の間に生起して人間を越えて持続する「世界」なのである。政治は破壊的になって世界を破滅に至らしめる程度に応じて、政治自らをも破壊し絶滅させる。別な言い方をすれば互いに何かしら個別的な関係を持ち合いながら世界に存在する民族の数が多ければ多いほど、それらの間に生起する世界の数もますます多くなるし、世界はますます大きく豊になるだろう・・・・・他方、万が一地球に大地殻変動が起きて、あとにたった一つの国家しか残されなくなったとしたら、そしてその国家内の誰もがあらゆることを同一の観点から理解して、互いに完全に意見を一致させながら暮らすようになったとしたら、世界は、歴史的-政治的意味では終焉したことになるだろう・・・・・言い換えるなら、掛け値なしの意味で、人間は世界が存在するところでしか生きてゆけないし、また世界は、掛け値なしの意味で、人類の複数性というものが、単一の種の単なる数的増加以上のものであるところでしか、存在しえない。

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思考と道徳の問題

「責任と判断」 ハンナ・アレント

元上智大学学長の柳瀬睦男さんは物理学者であり神父でもある。20年以上前、僕は柳瀬さんがどうして神父になったのかわからなかったが、物理学会での物理学者の社会的責任に関する講演を聞いてその理由がわかった。その講演で、柳瀬さんは物理学科に在学中、長崎・広島に落ちた新型爆弾が、自分の専攻している原子核物理学の応用によって作られたことに衝撃を受け、信仰の道に入ったと話していた。核物理がもたらした悲劇に研究者として責任を感じたそうだ。フォン・ノイマンやファインマンなどが嬉々として水爆開発に協力していたのとは柳瀬さんは違っていた。

本書は生前に刊行されなかったハンナ・アレントの講演、講義、エッセーを纏めたもの。この本のなかで、繰り返しソクラテスの「悪を為すよりも、悪を為されるほうがましである」という命題が引用されるている。道徳の命題は、証明しようのない自明の