「シモーヌ・ヴェーユ伝」 ジャック・カボー
今年の8出版社共同復刊で以前から欲しかった「シモーヌ・ヴェーユ伝」があったので買った。シモーヌ・ヴェーユはキリスト教的霊感のなかで生まれ、成長し、つねにそのなかに留まっており、「死の瞬間が生の規範であり、その目標である」と信じ、文字通りの清貧の精神で生きた。兄のアンドレ・ヴェイユは数学者で、「ブルバギ」の結成メンバーだった。この本のなかでは、兄は子供の頃に登場するだけである。この本は、シモーヌ・ヴェーユの「生きられた経験」を辿っており、伝記的事実よりその思想のほうに重点が置かれている。
哲学の大学教授資格試験に合格後、シモーヌ・ヴェーユは女子高等中学校の哲学教諭となり、授業の合間に、「革命的なアナーキスト」として組合活動に熱中する。そのころは「赤い処女」と呼ばれていたいたそうだ。大学教授資格者であり、体が弱い彼女が1年間工場で労働者として働く。労働者と同様に生活することを彼女は望んだ。
社会それ自体は、これを人間が支配するにいたらないかぎり、ひとつの自然力であり、人間にとって他の自然力と同様に盲目であり、同様に危険である。現在、この力はわれわれのうえに、水、大地、空気、火よりも苛酷なかたちでのしかかってくる。社会の個人への服従、これこそ真の民主主義の定義であり、また社会主義の定義でもある。
シモーヌ・ヴェーユは休暇をとり、スペイン内戦へ参加するためバルセロナへむかう。戦いの最前線へいった彼女は、武器の取り扱いが上手くできないため彼女が入った隊には有効な協力者とはならなかった。シモーヌ・ヴェーユは炊事をしているとき、油鍋に片足をいれ、火傷をして病院へ転送される。帰国後、彼女は「革命が不可能なのは、革命の指導者たちが無能だからである。革命がのぞましいくないのは、指導者たちが裏切り者であるからだ」と手紙に書いている。
工場の労働体験とスペイン市民戦争への参加の後、シモーヌ・ヴェーユは神秘的な体験をする。小さい頃続く、猛烈な頭痛のなかで彼女は「不幸を通じて神の愛を愛する可能性」を理解する。
空間は裂けて開きました。精神は片隅に打ち棄てられた惨めな肉体から逃れ出し、空間のそとにある一点に運び去られました。しかし、その一点は視点ではなく、そこからは展望というものはなく、しかも展望がないままに、わたしたちの可視的な世界がその真実の姿において眺められるのです。
空間全体は、たとえ耳に入る音があるとしても、濃密な沈黙によって満たされました。この沈黙は音のない沈黙ではなく、感覚の積極的な、音よりも積極的な対象であり、当初からわれわれを腕にいだきつづけている<愛>の言葉、そのひそやかな言葉でした。
シモーヌ・ヴェーユは、創造主との遭遇を次のように書き留めている。
肉体的な強度の苦痛に襲われた瞬間、自分にはその愛に名を与える権利はないと思いながらも、愛そうと努めておりましたとき、心の準備など少しもしておりませんでしたのにわたしはひとりの人間の現存よりずっと人間的で、確実で現実的なひとつの現存を感じ取ったのです。それは感覚にも想像力にも近づきがたく、愛するひとのこのうえなく優しい微笑を通して現れる愛にも似たものでした。
ナチがヨーロッパ各地を侵攻した為、シモーヌ・ヴェーユは、両親とともにニューヨークへ渡る。ニューヨークで彼女は、祖国を離れたことを悔い、恐ろしいほどの頭痛に苦しみ、食事も口にせず、部屋に籠もっていた。このニューヨーク滞在時に、シモーヌ・ヴェーユの「神学」は明確なものになっていく。「<愛>はすべてに同意し、すべてに同意する人間にしか命令しない。<愛>はひとつの放棄である。神は放棄である」。これがシモーヌ・ヴェーユの「神学」の中心概念であると著者は述べている。
神がわれわれに与えたこの存在性は、非存在である。ただわれわれはそれを知らないだけだ。もしわれわれが非存在をのぞむなら、われわれはすでにそれをもっている。それに気づきさえすればよい。
われわれの罪は存在をのぞむことにあり、われわれへの懲罰は存在していると信じることである。贖いとはもはや存在しないことをのぞむことである。われわれにとって救いとは、われわれが存在しないことを見きわめることにある。
われわれが非存在であることをわれわれに教えるために、神はおのれを非存在としたのである。
シモーヌ・ヴェーユは祖国フランスへ戻ろうとして、ロンドンへ行く。ロンドンでは、いまフランスは食糧が不足しているといって、あまり食事を取らなかった。彼女は自由フランス国民委員会に参加して、解放後のフランスの諸制度の草案等を書いていた。彼女は最後まで洗礼を受けなかった。シモーヌ・ヴェーユの精神的苦悩は終局に近づき、1943年4月には衰弱がはげしくなり入院する。病院において、彼女は食事を口にすることはなかった。必要欠くべからざるものを断つことが、彼女にとって厳正な社会的な義務となったと著者は書いている。8月、サナトリウムに転院するが、やはり食事は拒否し続け、「自分としてはフランス人の苦しみをともに味わいたいのだから、食事をとるわけにはいかない」と述べたそうだ。8月24日、シモーヌ・ヴェーユは静かに息を引きとった。34歳だった。死亡証明書には「栄養失調と肺結核による心筋層の衰弱から生じた心臓衰弱」と書かれているそうだ。