「諷刺の文学」 池内紀
池内さんが37歳のときの仕事。新装版で読んだ。30代の半ば、池内さんは諷刺物に熱中していたそうだ。諷刺物は文学史のなかでは、異端扱いされていた。いろいろ調べていたら、対象がどんどんひろがっていったそうだ。本書でも、ギリシャ時代の古典から1930年代のモンタージュ写真まで多様な対象が扱われている。池内さんは、本書によって「亀井勝一郎賞」を貰ったそうだ。
「風刺の文学」のなかでなじみがあるのは、「ガリバー旅行記」。以前、中野好夫さんの「スウィフト考」を読んで「ガリバー旅行記」を読み直した記憶がる。小人の国や巨人の国の話は子供向けの物語としてよく読まれていると思う。子供にこの風刺が分かるかと言えば疑問だ。大人でも難しいと思う。何に対する風刺かを知るにはスウィフトそのひとやその時代についての知識が必要となってくる。これが実にやっかいなことである。
スウィフトが歪んだ鏡をさしつけても、それはショックを与えて読者を追い込むためであり、その歪像がまさに当人であると納得させるためであろう。ショック技法には誇張がつきものだ。だから人間がいかに聖人からへだたっているかを示すために、スウィフトが人間を怪物として描いたとしてもあやしむ必要はないはずだ。意図は人間を「すばらしく」改めさせることにあったはずだ。だが、スウィフトの諷刺は必ずしも「改良」できるものだけにかかわらない。それはしばしば精神の状態に向けられる。あるいは改めることが、すくなくとも変えることができるかもしれない。しかし、おそらくは変えられない。モラルを改めても癒されない。その種のどうしようもない人間性に向けられる。
「ガリバー旅行記」の第4部では、諷刺が人間性そのものに向けられる。スウィフトは「人間が吸血虫にして脊椎動物であって、そして不滅の魂をもつということを赦すことができなかった」なのかもしれない。ガリバーはどこまでスウィフトなのかに答えるのは難しい。「嫉妬なく、好悪なく、争いなく、不満ない」フウィヌムはスウィフトの陽画であり、理想の化身であるらしい。これによって、ヤフーが計られ陰画となっている。フウィヌムは馬にそっくりで、ヤフーは人間にそっくりである。ではこの第4部は何を意図しているのだろう。池内さんは、「スウィフトは小宇宙としての人間の位置という、古くからの命題を絵解きしてみせたのではないか」と述べている。スウィフトは凶暴な疑惑家であり、大物ぶったものをからかうのが好きだった。なによりも著しいのは彼の欲望であった。彼はネガに収まった気味の悪い聖人であると池内さんは書いている。不安と不信がスウィフトの感覚をとぎすませた。
スウィフトの世界とは、正確にいえば世間であった。この世間はあいまいなその成り立ちに始まって、かすかな記憶となるためには、あまりにあいまいであった。だからこそであろう、この当人に忘れることを許さなかった。スウィフトはみずからに確保するために攻撃しなくてはならなかった。ありとある確固として守られているものをひたすら攻撃しなくてはならなかった。
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