「政治の約束」 ハンナ・アレント
「責任と判断」を読んだ後、この本を読み始めて読み終わるのにずいぶん時間が掛かった。書いてある内容が極端に難しいというわけではなく、やはり遺稿を編集したためか、内容も重複しているところもあり、本としてのまとまりがないように感じた。もともと「政治学入門」として草稿をドイツ語で書きためたいたものを英訳したのが本書。専門家でもないものが、遺稿を翻訳で読むのはそれだけでも難しい。アレントの生前発刊された本は、内容が難しくても本としての一貫性があったように思う。
本書がもし「政治学入門」として出ていたとしたら相当難しい入門書になったと思う。本書の大半は、ソクラテス、プラトン、アリストテレス等のギリシャ哲学者とギリシャのポリス政治についての記述になっている。今回は纏めるのが難しかったので殆ど引用。
古代ギリシャでは「政治の意味は?」という問いに対する答えは「政治の意味は自由」であった。20世紀の2つの経験(”全体主義”と”核兵器の使用”)を経た後の政治がもたらした災厄により、わたしたちの疑問はより根源的になる。すなわち「政治には意味があるのか」。今日、危険に晒されているのは人間なのか世界なのか。この問いに対して、人々がどのように回答するかわからないが、確かなことは、いかなる回答も非政治的であるということだ。なぜなら政治の中心にあるのは、人間ではなく、世界に対する気遣いだからである。
なぜそうなのかと言えば、人が一緒に集まるところではどこでも人々を寄せ集めると同時に互いに離反させる空間が生成されるからである。そのような空間はすべてそれ自身の構造を持ち、それは時間と共に変わり、私的文脈では習慣として、社会的文脈ではしきたりとして、公的文脈では規約、定款、規則として現れる。人々が集まるところではどこでも、世界が人々の間に割り込んでくる。そしてあらゆる人間的事象が営まれるのは、まさにこの中間的空間においてなのである。
自由について理解される内容が意味を変えるのは政治的な空間では当然となる。古代ギリシャにおいて、事業や冒険の意義が色褪せていき、公共空間で他者と交わることが生活のリアルな実質となり、自由な生の最も重要な活動が言論・自由な言葉へと移行する。ポリスにおいては、このことが決定的なものとなったが、これはなにかを始める活動の自由とは異なっている。語り合う自由は他者たちとの相互作用において可能となる。言論の自由とは、人は言いたいことをなんでも言って良いということではないし、一人一人がありのままの自分を表現する権利を持っているということでもない。重要な点は、誰も、ひとりでは客観的世界を十分に把握できないということである。
世界は多くの人間に共有され、彼らの間に横たわり、離反させたり結びつけたりするもので、人によって異なって現れ、それが理解できるのは、多くの人々がそれについて語り合い、意見を交換する場合に限られる。語り合う自由があればこそ、世界はあらゆる角度から客観的に見えてくる。言い換えるなら、世界は複数の観点が存在するときに限って出現する。つまり世界は、いついかなる時でも、こんな風にもあんな風にも見られる場合に限り、初めて世俗的事象の秩序として現れるということである。もしある民族や国民が、絶滅させられるなら、それは単に一つの民族や国民が死滅するということではなく、共通世界の一部が破壊されるということであり、世界の一側面が消えるということである。
厳密に言えば、政治の目的は「人間」というよりも、人間と人間の間に生起して人間を越えて持続する「世界」なのである。政治は破壊的になって世界を破滅に至らしめる程度に応じて、政治自らをも破壊し絶滅させる。別な言い方をすれば互いに何かしら個別的な関係を持ち合いながら世界に存在する民族の数が多ければ多いほど、それらの間に生起する世界の数もますます多くなるし、世界はますます大きく豊になるだろう・・・・・他方、万が一地球に大地殻変動が起きて、あとにたった一つの国家しか残されなくなったとしたら、そしてその国家内の誰もがあらゆることを同一の観点から理解して、互いに完全に意見を一致させながら暮らすようになったとしたら、世界は、歴史的-政治的意味では終焉したことになるだろう・・・・・言い換えるなら、掛け値なしの意味で、人間は世界が存在するところでしか生きてゆけないし、また世界は、掛け値なしの意味で、人類の複数性というものが、単一の種の単なる数的増加以上のものであるところでしか、存在しえない。