「『待つ』ということ」 鷲田清一
携帯電話が普及したことにより「待ち合わせ」は待つことがなく、約束したひとがくるまで、買い物をしたり、他の用事を済ませたりということが多くなった。荷物の配送も時間指定ができるようになり、待つ時間は減ってきている。最近、それにも関わらず配送会社に、いつ荷物が届くか頻繁に電話を掛けてくるひとが多いそうだ。「何時何分に荷物がくるのか」「時間がもったいない」というそうだ。山の手線などは、ホームのはじから反対側の出口に行くときなど、もう次の電車がくるほど運転間隔が短いにも関わらず、無理な駆け込み乗車はかえって増えているそうである。無理に乗るため、ドアに挟まれ結局電車が遅れることもある。2~3分が待てない。著者は、「みみっちいほどせっかちになった」と述べる。せっかちは、未来に向けた深い前傾姿勢のように見えて、実は未来を視野に入れていない。ちょっと前に決めたことの結末を、その枠内で早く決着を見ようとする。待つことが法外に難しくなっている。
意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうも
のへの感受性をわたしたちはいつか無くしたのだろうか。偶然を待つ、じぶんを超えた
ものにつきしたがうという心根をいつか喪ったのだろうか。時が満ちる、機が熟すのを
待つ、それはもうわたしたちにはあたわぬことなのか・・・・・・
待つといえば、サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」である。待つことが待つことである保証がないままひたすら待ち続ける二人の浮浪者-ヴラジミールとエストラゴン-が登場する有名な戯曲。僕はこの戯曲をTVで観たことがある。実をいうとわからなかった。「ゴドー」が「神-GOD-」というなら安易すぎるが、そんなことはないだろうと考えるとよくわからなくなる。例えばこんな会話が続く。
「さて、うれしくなったところで、何をしよう」
「ゴドーを待つのさ」
「ああそうか」・・・・・
「何をしようか、今度は?」
「待ちながらか」
「ああ待ちながら」・・・・
指示する者が存在しないからこそ、このふたりは「ゴドー」を待つしかなかった。不在の「ゴドー」に「不在」の通告を下せない。従属という形式を放逐も放棄もできないため、できるのは時間つぶしだけである。
なんの保証も可能性もないところで待つということ。なぜこのようないとなみが、わたし
たちにおいて一度ならず始まるのだろうか。ひょっとして、待たれる者が存在する保証
もないままに待つというのは、ひとにとって、究極のいとなみであるというよりもむしろ、
<わたし>というものが存在しはじめるその初源のいとなみであるからかもしれない。
とどのつまり、待ってもしたがないとじぶんに言い聞かせ、待つことを放棄するなかで
はじめて、待つということのほんとうの可能性が到来するということだ。
著者は、待つのその時間に発酵したなにか、待ちぼうけに終わっても、それによって待つ人は意味を超えた場所にでる、その可能性にふれたはずだと最後に述べている。