虚仮不実のわが身にて
「親鸞をよむ」 山折哲雄
親鸞といえばまず思い浮かべるのは「歎異抄」である。有名な悪人正機説の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」だ。著者はこの本の中では、「歎異抄」を親鸞の二次資料として位置づけ、あくまで「教行信証」「三和讃」を親鸞思想の中心とみなし読み込んでいく。「教行信証」に展開されている主題は、父親殺しの罪人ははたして宗教的に救済可能かということだった。「教行信証」の前半に、「涅槃経」や「感無量寿経」などに紹介されている古代インドのアジャセの父殺しの問題を掲げている。阿弥陀如来によって父殺しは救済されるかどうか、その条件はあるのか、一種の危機神学の論題と著者は述べている。「大無量寿経」の規定によれば、「五逆」と「誹謗正法」の罪を犯した者には阿弥陀如来の救済は及ばない。親鸞が直面した深刻な問いであった。そしてその解答は「教行信証」の最後に現れる。父殺しが救われるためには、「善知識」と「懺悔」の二条件が決定的に重要である。この条件を満たせば五逆の根元悪が乗り越えられると親鸞は述べて「教行信証」を終えている。これが親鸞の「悪人正機」の核心であり、悪人救済思想の第一原理であると著者は述べている。それにたいして「歎異抄」の「悪人正機」論は、親鸞の悪=悪人論の本質からすれば、一部分に言及しているのに過ぎない。そのことについて著者は次のように述べている。
「歎異抄」で説かれている論旨は、悪人正機論であれ、善悪=宿業論であれ、われわ
れ人間にはそもそも悪(=殺人)を犯す可能性があるという議論だったといってよい。と
ころがこれに対して「教行信証」で展開されている逆害論は、アジャセという父殺しの
悪が主題とされている。気がついたとき、すでに殺人を実現してしまっていた人間の悪
の問題である。可能性における悪の問題とは決定的異なる状況といわなければならな
いのだ。そして、この父殺しという逆害を実現してしまった人間の罪が償われるために
は、「善知識」と「懺悔」の二条件が必須であると親鸞はいったのである。悪人アジャセ
が阿弥陀如来の慈悲によって救われるためには、それが絶対に欠かせないといって
二つの条件をさしだしたのである。
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