« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »

2007年8月

変なことは素晴らしい

「女優家M 演技の花道」 森村泰昌

この本は、森村さんが蜷川幸雄演出の芝居と辻仁成監督の映画に出演したときの体験談。僕は芝居も映画を見ていないので、そのことについてはなんとも言えない。僕の蜷川幸雄さんの印象は、まだ俳優をやっていた頃のもので、なんだかさえない脇役をやっていたような気がする。今では大演出家となり、本場英国のロイヤル・シェークスピア・カンパニーの演出まで手がけるようになった。世界の「ニナガワ」である。怖い演出家というイメージがあるが、演出家「ニナガワ」の語録が載っているのでところどころ引用してみる(芝居は野田秀樹脚本「パンドラの鐘」。野田演出の芝居も同時期に上演された)。

  ツルツルの幼稚園の廊下で走り回るみたいな野田の演出ってさ、たんなる身体と言葉
  のくだらねえゲームだろ。俺、野田の書く能力ってさ、かなり評価しているつもりなん
  だ。でもあいつの演出はいただけないね。だからこの俺がシャシャリ出て、正しい演出
  の見本をしめしてやろうってわけだ。

  役者は取り替え可能な記号として取り扱ってはならない。

  演出家の役割って、どういう役者の組み合わせにするかってことにつきる。役者を決
  めてさ、あとはこんな舞台でやりますって場所を与えておいて、あとはごずいいにってと
  こかな。演出家のやることは、ほぼそれでおしまい。

  映画やテレビだったらさ、主役が映ってるときには、まわりの役者は映んないけど、芝
  居の場合は、お客はいつも舞台全体を目にしているだろ。だから舞台にあがっている
  ときは、四六時中、自分をみてもらえるんだぜ。ここはさ、いただかないとさ。俺はこう
  いうとこ、ちゃんと見ていて認めてあげたいからさ。ともかくオシナベテおなじってのは、
  最悪だ。

  小劇場だったらさ、お客と舞台がはじめからひとつの気分だからさ。適当にダラダラや
  ってりゃいいけどさ、大きな劇場ではズームインとカット割がきちんとできていないと、
  お客は舞台のどこをどう見ていいのかわからない。あんまりやりすぎるとさ、ありふ
  れた大衆演劇になっちゃうけど、やっとくことやっとかないと、小演劇場出身の下手な
  役者ってなことになるぜ。

  セリフ変えていいんなら、演出家はいらねえな。シェークスピアやってて、あれのセリフ
  変えていいなんて、俺は思わない。セリフは変えない。この制限のなかでどれだけの
  工夫がありえるか。それが演出ってもんだからな。

辻仁成さんについては、本も読んだこともなく音楽も聴いたこともない。映画も見なかったので、本を読んでいてもあまりピンとこなかった。「ニナガワ」語録のほうがインパクトがあった。最後に森村さんからの引用。演技をダシにして己を語る。

  人間は演技することなしに成り立たない存在であると実感する。人間は「自分」という
  人間を演じることで「自分」になれる。

  どんな年齢であれ、どんな職業に携わっているのであれ、人間はみんな演技にかかわ
  って生きている。だから人間は演技する生き物であると私は思う。

  芝居や映画を観るのがおもしろいのは、演技することなしに人間はありえないという実
  感を、それらがじゅうぶん味あわせてくれるからだろう。

  だとすれば、芝居や映画を語ることは、結局のところ、人間自体を語ることにもなるだ
  ろう。

_k2c1677

|

川崎 1 - 1 名古屋

「入らないのは力がないから。だったら練習しなきゃ」まただよ・・・・・_| ̄|○

雨の等々力は、芝が短いのでとてもスリッピーです。いやあ打てども打てどもフロンターレのシュートは入らない。玉田のシュートは、めったに見られないような後ろ向きのシュートでした。あれはしょうがない。もう一回やれといってもできないのでは。しかし、また先制点をとられてしまったフロンターレ。これはなかなかなおらないなあ。今日のテセはちょっと消極的でした。森のシュートは入ったと思ったけどなあ。気になるのは憲剛のシュートやパスの精度が落ちていること。黒津の左サイドはやめて欲しい。黒津のよさが消えています。本田が退場になって前がかりになっても、相手に引かれるとフロンターレはなかなか崩せない。結局、得点できるのはジュニーニョだけなのでしょうか。井川のパスはシュートだったのかなあ。日本人選手はもっと頑張って下さい。
リーグ戦はもっと若手を使って下さい。さすがにリーグ制覇なんていうひとはもういないでしょうから。等々力はもう秋だなあ・・・・・_| ̄|○

_mg_4272

|

バッソ・オスティナート

「『日本文学史序説』補講」 加藤周一

「日本文学史序説」を読んだのは、20年以上前だ。「朝日ジャーナル」に連載されていたときは全部読んではいなかった。Amazonで「日本文化における時間と空間」を買おうとしたとき、この本を見つけて一緒に購入した。この本は「序説」をテキストとした合宿学習会の記録である。そのため、本文は話ことばになっている。「序説」を読んだとき、普通の文学史より取り上げる範囲が広いという感じがした。今回、この本を読んでその理由がわかった。<文学>の定義を意識的に広くとる。というのは<文学>の定義はそれぞれの国によって違うからである。そして文学の定義として<面白さ>がある。漢詩も面白いし、口承される話も面白い。そのため「序説」では、そのような普通の「文学史」に取り上げられなかったものも取り上げているということである。「序説」は、日本の土着思想があって、いろいろな国のいろいろな思想や宗教が入ってきたときに日本人はどう反応したかを、文学を通じて見てみている。国際的に強い思想(仏教など)が入ってくる前の日本人の本来の考えというのはどのようなものであったかを問題にしている。これを丸山眞男さんは「古層=バッソ・オスティナート(通奏低音)」と表現した。これが日本に入ってくるあらゆる外来の思想の変化を引き起こす。ここで国学の面白さをつぎのように述べている。

  国学は<大和心>の意識化です。<大和心>は実際に働いているのだけれど、整理し
  て、知的システムとして理解し、叙述することはできない。それは宣長の国学者として
  の役割です。国学者があらわれるとき、しばしば地方の中にあらわれるのは当然で
  す。木曾の山のなかには<大和心>しかない。儒教はそんなに入ってこないし、中央の
  政治的取引とか出世の野望もない。そうすると国学はますます強くなります。それは伝
  統的な土着世界感、あるいは感受性、あるいは物の見かたの意識化、プリーズ・ド・コ
  ンシャーンスです。だから面白い。

今の日本は共通の古典を持たない。それは野蛮な社会ではないかと加藤さんは言う。それで共通の古典として「論語」を読むことを薦める。加藤さんは「日本人の考えのなかにある普遍的なことは日本語でみんなあらわすことができるという点で日本語は貧しいとか、あいまいだとか、表現力に限界があるなどという人は、日本語をあわまりよく知らないと思いますね」と述べる。多分、加藤さんは誰よりもこの国の言葉や文化を愛しているのだろうと思う。

_mg_1048

|

哲学とファッション

「死なないでいる理由」 鷲田清一

鷲田さんの本を読み始めたのが今年からで、「京都の平熱」が最初。この本が面白かったので、鷲田さんの本を10数冊まとめ買いして、ぼちぼち読んでいる。とくに出版順に読んでいる訳ではないので、時代でいうとここ20年位の事が一緒くたになっている感じがする。

今回の本は、10年位前にかかれた論文やエッセイーをまとめたもの。鷲田さんの本で、しばしば引用されている大宅映子さんの言葉「死ぬとわかっていて、なぜ人は生きてゆけるのか。そういう問いに根元的に答えてゆくのが文学部というところだ」にたいする答えとして、哲学は「生きることの意味」を探求することと鷲田さんは定義する。鷲田さんはなるべく難解な言葉を使わずに「哲学」を語ろうとする哲学者。哲学の探究は、長田弘さんの言葉から「見えているのにだれも見ていないものを、見えるようにする。言葉で見えるようにする」のが仕事だ。今の日本では、物のリアリティを隠すようになっている。出産、排泄物、死と死体、切り身の魚、サイコロ状やスライスした肉等々。生きるということはこのような生物の実相を目で見えるかたちで伝え「このことを忘れてはいけないよ」と言っている。こういう時代に大切なのは、わからないことを、わかることで歪めてしまわないことである。わからないのに、単純な論理でわかることにすり替えてもすぐに破綻する。
  
  人生にも、そういうところがあるのではないでしょうか。だから答えはすぐに見いだせな
  い、そういうむずかしい問いに直面したときに、それを押し隠すのではなく、別の言葉
  でかんたんに解釈してしまうのでもなしに、その問題の切実さ、重要さをしっかり見き
  わめながら、いまは答えがなくてもわからないままにどう対処すべきか、生き方の方針
  をどう立てるのか、それを考える。そういう思考法が人生において必要です。

鷲田さんの文章は、現象学について語るときより、ファッションについて語るときのほうが生き生きしている感じがする。鷲田さんは、ヨウジを愛用しているらしい。ブランドは本来、ブランドのほうではなく、買うほうにイニシアティブがあった。つまり、自分がどれをえらぶかがそのひとのものを見る目の確かさに繋がっていた。しかしながら、日本では「総ブランド主義」になっている。ブランドのアンチテーゼとして、グランジや古着が流行るとそれがブランドになってしまう皮肉。バックや服に限らず、身体も。みんな必死になってダイエットしたりエステへ通ってモデルのような体型という幻を追い求めている。内面から醸し出すものなんてもうあまり関係ない。内面もみがかなきゃといってもダイエットほど本気にはならない。鷲田さんは「最近の女のひとって、オッパイを堂々と出し過ぎる」と述べ、「たしかにいまの女のひとのからだはほっそりしていて胸もビョーンと突き出していて、なかなかあっぱれなものではあるけれど、わたしなんかにすると、セクシーとか誘惑とか関係のない次元での自己満足というか、ただの露出にしか見えない」と指摘する。
  
  とはいえ、大事なのは、それを隠すことです。ひけらかさないこと。選ぶことと隠すこと、
  そうやって自分だけのテイストを守りつづける。隠すといえば、19世紀のダンディズム
  もまさにそうで、彼らは一年中、同じ服を着ていた。でも、着たきりじゃなくて、ちゃんと
  毎日替えていたのです。つまり、まったく同じ服を何着も持っているんです。これこそ、
  究極のお洒落だと言えないでしょうか。

Dpp_0006

|

Love in the afternoon

「VOGUE」10月号が届いて、つらつら眺めていたら、「Love in the afternoon」の写真が結構気に入りました。カラーなんですけどセピア色の感じで、粗い粒子でソフトフォーカス気味。Digital Art work by Henhouseと書いてあるのでそれなりのデジタル処理をしていると思いますが、それが嫌みになっていない感じがします。今月号の「VOGUE」は、「クリスティと仏像」とかもあって写真が面白いです。「仏像とモデル」という写真は撮りたくても、素人写真愛好家では撮れません。国宝級の仏像とスーパーモデルを手配するのは至難の業です。ただただ感心して見るだけです。多分広告なんでしょうか(ファッション雑誌はどこからが広告でどこからが本文なのかがわかりにくい)、表参道の交差点をグッチを身につけたモデルが渡っているところをパノラマで撮影した写真がありどうやって撮ったのか不思議に思いました。やはりこれもデジタル処理しているのでしょうか。

_mg_0478

|

U-22日本代表 1-0 U-22ベトナム代表

「入らないのは力がないから。だったら練習しなきゃ」

岸野監督の名言を何度も引用させてもらっています・・・・・(´-ω-`)

それだけ日本の選手には決定力がないのでしょうか・・・・・・・_| ̄|○

あれだけチャンスがあって、何本もシュートを打って、終わってみれば1点だけ。終了間際のベトナムのフリーキックが決まっていたらしゃれにならなかった。後半運動量が落ちた日本に対して、ロスタイムのときのほうが動きが良かったベトナム。五輪代表の前途は厳しいと思った管理人です。

平山君、1本くらい決めてね・・・・・・(´-ω-`)

反町監督、くそ暑いのにワイシャツ、ネクタイにスーツはやめちくれぃ・・・・・(´-ω-`)

_mg_4271

|

「ここ」の思想

「日本文化における時間と空間」 加藤周一 <空間編> 

第二部では、日本文化の空間における特徴は、全体から構築するのではなく、部分から建て増していく建築様式に如実現れていると著者は言う。その究極の形式が、茶室である。非対称型式の2畳の空間に、掛け軸と一輪差しのみで構成される。この狭い空間で客をもてなす。それは、茶室だけではなく茶室がある庭園、それに続く母屋を含めた空間でひとつのセットとして客をもてなす空間を形成する。日本の建築では、このように水平方向への展開はあるが、垂直方向へ、つまり天へ向かう建築は少なかった。西洋では、何世紀もかかって大聖堂を建設していくことがまれにあるが、全体の様式が決まっているのでそのような時間がかかったからといって、当初設計された様式はちゃんと守られる。また、パリの地下鉄網は、百年前に計画建設されてから追加された路線はひとつしかない。それに比較して、日本の場合、とくに東京は、鴎外のころからいつも「普請中」である。地下鉄に至っては、路線の延長、追加などで、全体の計画がどうなっているかわからない。全体を見据えた計画を考える文化がないのである。この部分にこだわることによって、東京は巨大な「カオス」となった。

  部分は「ここ」、すなわち「私の居る場所」である。その場所は、典型的にはムラ共同体
  であり、境界は明瞭で、境界の内と外の二つの空間がムラ人にとっての世界の全体を
  作る。ムラの領域は世界空間全体を分割した結果ではなく、ムラの集まりがクニを作
  り、空間の全体はクニの外部の無限の広がりとして与えられるものである。私の住む
  場所=「ここ」がまず存在し、その周辺に外側空間が広がる。
  それぞれにそれぞれの「ここ」で生き、働き、取り引きし、連帯し、競争していた。「ここ」 
  は伸縮し、重層する。家族から国家まで、「ジェンダー」から世代まで、一人の人間は
  多くの異なる集団に属するが、それぞれの集団の領域を「ここ」として意識する。「ここ」
  から世界の全体を見るのであって、世界秩序の全体からその一部分=日本=「ここ」
  を見るのではない。その構造、すなわち部分が全体に先行するものの見方は、敗戦と
  占領後の20世紀後半に変わったろうか。例を日本国の対外的態度にとれば、根本的
  に変わったようには見えない。

1945年8月15日後の日本人の豹変ぶりは著者も書いているように信じがたいものだったらしい。埴谷雄高さんの本に、今まで自宅を監視していた特高警察のひとが、8月15日後に埴谷さんの家へ来て、「これからはあなたたちの時代ですね」といって、就職口の紹介を頼んだとあった。

みずから観察し経験した対象を、美しい短詩型式に表現した最初の旅の詩人は芭蕉である。日本人が自然を愛したのではなく、芭蕉が愛したのであると指摘する著者の目は鋭い。雪舟や芭蕉が偉大なのは、彼が日本の「自然」を発見したからで、発見するためには、京都や江戸の旅の、閉じた空間を破ってそこから脱出する必要があった。しかし、現在では彼らの発見した「自然」そのものが無くなった。今、日本を旅しても、それはもはや芭蕉の旅とは全く異なる性質のもである。彼らは、一時のやすらぎと楽しみを見いだしたのではなく、新しい芸術の創造力を見つけたのである。国内旅行を海外へ換えても問題の解決にはならない。

  伝統的な日本文化にとっての典型的な空間は、労働集約的な水田耕作のムラであ
  る。ムラ共同体の境界は明瞭で、必要に応じて開閉する。ムラ人の行動基準は他の
  ムラ人に対する場合と非ムラ人に対する場合とで大いに違う。ムラ人はムラに従って
  暮らす。集団第一、個人第二。その逆ではない。共同体は個人の安全を保証するが、
  他方では個人の自由を極端に制限する。全会一致の決定を背景として定めた目標を
  達成するに能率的であるが、目標を変更する必要が生じたとき、新たな目標を選定す
  る過程では、しばしば無能力である。

_mg_1072

|

ではみなさんご一緒に

「日本文化における時間と空間」 加藤周一 <時間編>   
   
    ではみなさん、
  喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
  テムポ正しく、握手をしませう。

  つまり、我等に欠けてるものは、
  実直なんぞと、心得まして。

  ハイ、ではみなさん、ハイ、ご一緒に―
  テムポ正しく、握手をしませう。

  中原中也 「春日狂想」より

日本文化社会の時間的特色を未来でもなく過去でもなく「今」に帰する。それは、ムラの時間の流れは等価的な「現在」の連鎖であり、その一環が個別の成員の一生である。それは連歌、随筆、絵巻物にもその特徴を持つ。連歌は数人の合作で、誰も全体の構造を考えず、その場の思いつきで、主題を変え、背景を変え、付句に注意を集中する。過ぎた事は水に流し、明日は明日の風に任せ、「今=ここ」に生きる文学形式である。また、随筆も連歌と同じように、全体は成り行きまかせで、個々の文章は相互に共通する主題もたない。今、目前の断片がそれ自身が面白ければ面白い「今」主義である。絵巻物の時間は、過去から現在に流れる時間ではなく、やはり等価的に並ぶ現在の連鎖である。
 
  詩人中原中也は、雑誌『文学界』(1937年5月号)に、痛烈無残な詩「春日狂想」を
  書いていた。その一行に曰く、
 
  ハイ、ではみなさん、ハイ、ご一緒に―
  
  これは集団所属性の確認であり、社会学者のいわゆるtogetherness、すなわち「みな
  さんご一緒」主義の劇画化である。要するに「ご一緒」が重要なので、ご一緒に何をす
  るかが重要でない社会。その社会の、「私」を無くして集団に奉仕するのを美しいとす
  る美学。

  日本国には半世紀以上も独自の外交政策を生みだす経験がなかった。そこでわず
  かにくり返されたのが、情勢の変化に対するその場の反応、応急手当、その日暮し、
  先のことは先のこととして現在にのみこだわるということになったのであろう。しかし
  その背景には、おそらく、過去を忘れ、失策を思いわずらわず、現在の大勢に従って
  急場をしのぐ伝統文化があった、と考えざるをえない。故にそこから抜け出すことは
  容易ではない。

加藤さんの文体は明快でわかりやすい。しかし、その批判は厳しい。古今東西の文化比較は、加藤さんならではだろう(僕は日本文化のところしか分からないかったが)。3ヶ月で7刷にもなっているので、このような本では異例に売れているのではなかろうか。たぶん加藤さんの新刊本をみな読みたいのだろう。僕もその一人だ。先日、僕が乗った電車の向かい側の座っていた6人のひとたちが、みな同じように携帯電話を右手に持ち、そのディスプレイを見つめているのを見て、本当に「みなさんご一緒」だなあと妙に感心した。

_mg_4274
  
  

|

札幌 1-2 湘南

今季、4敗目です。リーグ戦全部勝てるわけではないので・・・・・(´-ω-`)

次節は、芳賀と西嶋とダヴィが出場停止・・・・_| ̄|○

勝つサッカーをやるのか、良いサッカーをやるのか。攻撃的サッカーか、守備的サッカーか。昨年のJ2首位だった横浜FCの守備は、結局J1で通用せず、柏や神戸のほうがJ1でそこそこの成績を残しています。Jリーグ一の得点力のG大阪がバレーを補強し、浦和は阿部を補強したのに対して、フロンターレは名古屋の控えGK川島を補強。このへんの考え方がリーグ制覇を狙うチームで差がでて、今のリーグ戦の順位に反映されていると思います。良いサッカーをやっていると言われる千葉が苦戦しているのは、最後のところの決定力の精度が足りないためのように思います。フロンターレも、失点を減らすという目標とうらはらの結果で、得点もジュニーニョやマギヌンの決定力頼り。札幌も今のメンバーで、今の戦術だと横浜FCの二の舞だと思いますが。今頃、なりふり構わない補強をしている横浜FCを見ていると考えさせられます。J1昇格したら、どうするんでしょうかねえ札幌は。

_mg_4251

|

清水 3-1 川崎

「入らないのは力がないから。だったら練習しなきゃ」

意外と暑くないじゃないか東京は。たぶん今日だけなのでしょうけど・・・(´-ω-`)

あいかわらずTV観戦です。決定的な場面で何度も外すと勝てないと思う。今日も何度も外し先制点を取れないフロンターレ。最初のPKは、箕輪がスピードで矢島に抜かれてあわてて後ろからタックルにいってカードを貰うといういつものパターン。その箕輪は次節から2試合出場停止です。森がカードが多いというけど箕輪も同じくらい貰っているような気がします。フェルナンジーニョにもスピードでかわされて2点目を取られる。フロンターレのDFがスピード系に弱いのはJ2のころからなのでまあしょうがないです。後半、なんとかテセがねじ込んで1対2になってさあこれからという直後に、また矢島にスピードで抜かれて3点目。これで試合は決まってしまいました。こういうのをお礼参りというか恩返しというのでしょうか・・・・_| ̄|○

Dpp_0019

|

京都 2 - 3 札幌

逆転勝利キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

3試合連続3得点キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

曽田とダヴィは次節出場停止ですが・・・・(´-ω-`)

上位チームでは札幌のひとり勝ち。勝ち点差がひらくいっぽうで、予想外です。いやなんというか昇格できそうな感じがしてきています。速報を見て、2対1になったときは負けかと正直思いました。あの暑い西京極で逆転するとは今年はちょっと違います。あまり昇格、昇格というと逃げていきそうなので後は自粛。

<鳥栖 3 - 1 東京V>
ラモス監督「何をやっても今日は勝てないと思った」(バー、ポストに何回もシュートが当たって)
岸野監督「うちがバーに助けられたと言っているようなら、何度やってもうちが勝つ。入らないのは力がないから。だったら練習しなきゃ」(讀賣新聞より)
岸野監督はラモス監督の親友。友達の助言はちゃんと聞きましょうラモス監督。

_mg_4244

|

川崎 1 - 2 横浜FM 

なんか急に涼しくなった札幌です。フロンターレも秋風が吹いているように感じる管理人です。タイトル取るなんてもう言わないようにお願いします、スタッフ&選手の方々。

しばらくフロンターレの試合は生観戦できないので、TVでダイジェストを見ました。スターティングメンバーを見たとき、柳の下にどぜうは2匹いないようなあと思いました。谷口はやはりボランチで使うべき。落合になぜこだわるのかさっぱりわかりませんが。調子のでない千葉には通用しても、調子が上がってきたマリノスには無理な布陣。最初の失点は、いつものとおり、一番マークしなくてはいけない選手のマークがおらず、ほとんどフリーで大島にヘディングシュートを決められる。まあいつまでたっても修正できなのでこれが実力。2点目も不用意な緩いパスを奪われ山瀬に決められる。攻撃は、ジュニーニョが徹底的にマークされると点が取れません。テセはなんというか中途半端な動きで合っていないような気がしますが。マギヌンはいつ戻ってくるのかなあ。何回もいうようにタイトル狙うならそれなりの日本人選手を補強しないとダメだと思う。

_mg_0431

|

「仕事」をめぐって2

  石屋製菓(札幌市西区宮の沢)の石水勲社長は十六日、札幌市内で記者会見し、「白
  い恋人」の賞味期限を一-二カ月延ばす改ざん行為を一九九六年から十年以上、行
  っていたことを明らかにした。石水社長自身もこの改ざん事実を知っていた。「白い恋
  人」の賞味期限改ざんが会社ぐるみで、常態化していたことが分かった。
  十四日に三十周年記念商品の一部で改ざんが発覚した際に、石水社長は「改ざんは
  三十周年限定商品の四千三百二十八箱だけ。ほかの白い恋人には存在しない」と断
  言。虚偽の説明をしていたことになり、経営責任が問われることは必至だ。
  会見によると、同社は社内規定で「白い恋人」の賞味期限を「四カ月」と設定していた
  が、一九九六年に商品保存が効く特殊な包装フィルムを導入してから「商品は一年
  間、最低でも六カ月は持つ」と認識。「白い恋人」の在庫が発生するたびに、パッケー
  ジの賞味期限の刻印を一-二カ月延長する改ざん行為を繰り返していた。
  (北海道新聞より)

「白い恋人」の賞味期限改ざんが会社ぐるみで、常態化していたことが分かったそうだ。「白い恋人」は、生菓子ではないので賞味期限が2~3ヶ月過ぎても知らずに食べてしまうと思う。だからといって賞味期限改ざんが許されることではない。似たようなことをやっているところは他にもたくさんあるのだろうと思ってしまう怖さがある。今回の石屋製菓のようなことが起きても、企業がなくなってしまうとその事件など忘れてしまい、企業が存続してもある程度の期間が過ぎれば気にしなくなる。そのため、同じような事件が繰り返し起こっても、不思議に思わなくなっている。内山さんの「戦争という仕事」のなかに、「資本主義と仕事」という章があり、仕事の倫理性について述べているところがあるので、ところどころ引用する。

  企業の様子は、高度成長以降急速に変わっていく。はじめは企業といえども仕事人の
  共同体のような雰囲気を持っていたけれど、次第に市場経済のなかで利益を追求す
  るだけの組織になっていく。その帰結は、利益を確保するための不正の頻発であり、
  リストラであり、人間の使い捨てであった。

  私たちは企業や国家や世界システムから生じる問題点に対して、困ったことだと思い
  ながらも本気で抵抗しようとはしなくなった。そして、そのことがいっそう人間としての誇
  りを喪失させる。

  資本主義にも何らかの経済倫理が働いていることを期待する人がいたとしたら、その
  人の思いは期待はずれに終わるだろう。はっきり述べてしまえば、資本主義は原理的
  には何の倫理性もない経済システムである。せいぜい法に触れないように注意が払
  われるだけであって、だからこの経済システムからは、たえず腐敗と不正、不法が生
  まれつづける。

  資本主義は、さまざまなちょっとした「悪事」に私たちを誘い込む。そして、それに手を
  染めていると、私たちは、少しずつ人間として大事な何かを失っていく。いわばみずか
  ら頽廃し、落ちていってしまう。
  孤立した人間が、振り落とされまいとしながら資本主義のもとで生きていくとき、現れて
  くるのはこんな現象である。だから、今日の私たちは、生きていくための基本的なもの
  を変えたくなってきている。

_k2c6607

|

黒い恋人

  菓子製造販売道内大手の石屋製菓(札幌市西区宮の沢、石水勲社長)が、同社が製  
  造、販売する人気菓子「白い恋人」の賞味期限を一カ月先の日付に改ざんし、販売し
  ていたことが十四日、分かった。農水省によると菓子の賞味期限改ざんは、日本農林
  規格(JAS)法の加工食品品質表示基準に違反する可能性がある。また、同社は大
  腸菌群が検出された自社製アイスクリーム約四トンをひそかに自主廃棄していたこと
  も明らかになった。札幌市保健所は十五日、同社本社工場を立ち入り検査する。
  石屋製菓は内部告発を受けた市保健所が今月上旬、最初の立ち入り検査をするま
  で、保健所への報告や公表を怠っており、食品衛生管理の姿勢が厳しく問われてい
  る。 同社は一九七六年に誕生した「白い恋人」の発売三十周年を記念して、昨年五月
  から今年四月にかけ、本社工場で「白い恋人三十周年」記念の限定商品を大量に製
  造し、販売した。 しかし、売れ残りが出たことから、今年五月五、六の両日、この限定
  品の包装をはがし、賞味期限の表示を一カ月延長した虚偽の包装紙に包み直して販
  売した。具体的には、今年三月製造で「賞味期限七月三十一日」の商品の賞味期限
  を「八月三十一日」に、また同年四月製造で「賞味期限八月三十一日」の商品の賞味
  期限を「九月三十日」に、それぞれ改ざんした。(北海道新聞より)

札幌にいるのに暑くて、夏バテの管理人です。こんなに暑い日が続くのは初めてのような気がしますが・・・・_| ̄|○

お土産はいままで「白い恋人」を買って、間接的にコンサドーレを支援してきたのですが今回は買えません。お土産屋さんから撤去されて無くなってしまった・・・・_| ̄|○

限定商品が大量に余ったので賞味期限を改ざんするとは・・・・_| ̄|○

ローカルニュースでは、社長が謝罪している映像が何回も出ていたのですが、社長は何にも知らなかったのでしょうか?明日のコンサの試合では、胸のスポンサー名はそのままなんでしょうか?

写真だけでも涼しげに。といってもあまり涼しいそうではないですが。

_mg_1006

|

「仕事」をめぐって

「戦争という仕事」 内山節

内山さんの著作には、群馬県山野村での生活がよく出てくる。その生活は、東京では失われてしまった「村」の共同生活が描かれている。農作業や里山の手入れなど村民が共同で行う「労働」がわれわれの都市生活とは違う様相を示している。そこには、本来あるべき「仕事」について考える手ががりを与えてくれると内山さんは述べている。この本では、現代の市民社会が「戦争」を抑止する力とはならず、戦争を必然のことと思うようになっている。われわれの「仕事」が利益最優先となり、その利益権利を守るためには、「戦争」も必要悪として見逃される。それは、自由と民主主義を標榜する近代社会がそのような考えを生み出す装置になっている逆説がある。われわれは過去に戻ることはできない。しかし、過去から学ぶことを忘れたら、未来への想像力を失うと著者はいう。確かに現代社会は劣化していっているのだろう。里山の思想から、どのような社会を目指すのか。その問いに対する答えは、僕にはよくわからなかった。

  言論や思想信条などの自由は、制度としてはかつてないほどに形成されている。

  問題はこのような社会が、戦争への抑止力を生み出したかどうかである。そして
  この問題に対する答えは明白である。なぜなら、今日の社会ほど抵抗なく戦争を
  遂行できる社会はないという現実が、私たちの前にひろがっている。

  それは近代国家と近代的市民社会からなる私たちの社会が戦争をおこなう芽を
  内包させているという視点であり、そこではたえず非戦や反戦が無力化する構造
  が展開し、そういうかたちを成立させる背後に近代的な思想があると考える思考
  回路である。

  本書のなかで、私は戦争を否定しきれない現代の労働のあり方をみようとした。
  現代の労働のなかに「戦争という仕事」と共通する何かがある。その労働は近代
  的な市民社会との間に親和性を持ち、この土台の上に近代国家がある。さらには
  現代の労働のかたちと結びついてこそ、私たちの「個」としての存在もそこにある
  自由も展開する。

_mg_2509   

 

|

札幌 3 -0 C大阪

_mg_4247

千歳空港についた時、涼しいと思わなかった管理人です。なにか湿気が多い感じでした。今日はドームでよかった。

涼しいドームに入ると今日はビールが半額ということで、久しぶりにサッポロクラシックを試合前に飲んだ管理人です。試合のほうは、札幌が縦ポンだけではなくサイドからも攻撃をしていて去年のようなサッカーでした。今日、青野さんがでておらず守備がちょっと不安。前半早々、中山のシュートがポストに当たり、跳ね返ったところを藤田がシュートを決めて先制点。その後は、両チームともミスが多かったです。中山の惜しいシュートがあったのですが、中山はいつものとおりでした。西谷のFKもポストにあたり惜しかった。C大阪のほうは、前半とくによくなかったように思います。後半開始直後、セットプレーから池内?のヘディングシュートがこれまたポストに当たり、今度はダビィが決め2点目。その後、C大阪が森嶋を入れて、攻撃のかたちをつくりますが、なぜかサイドの選手がフリーになっているのに真ん中、真ん中という攻撃が多かったです。幻のゴールが2回ありましたがいずれもオフサイドで助かりました。西谷のミドルシュートが相手DFに当たってコースがかわり3点目。これで今日は勝てると思ったのか、管理人の近くのお客さんが残り10分前から結構帰りはじめました。今日はまあ安心して見られて負ける気がしませんでしたけど。あと3点くらい取れそうでしたが。スピードがあるFWが欲しいというか必要だと思った管理人です。

得点のあとゆりかごダンスをしていたのは青野さんにお子さんが生まれたそうです。付き添いで今日は出場しなかったそうです。

_mg_4243

_mg_4291 

|

戦争は誰にも悲しみをもたらす

「終わらない旅」 小田実

小田さんが亡くなってから、すぐこの本を買って読み始めた。今亡き父親のアメリカ人女性との恋を、父親の手記と手紙を通じて知った娘が、その縁のある場所へそのアメリカ人女性の娘と共に訪れる。最後に、そのアメリカ人女性の息子がいるベトナムへ旅に出かける。偕老同穴の恋が描かれているが、父親の手記は、そのまま小田さんの評論である。後半のベトナムの旅で、脱走兵の手伝いをした橋本の議論も、そのまま小田さんの評論だ。大阪空襲、ベトナム戦争、アメリカ脱走兵の支援、神戸震災、9.11等。多分小田さんの評論を読み続けてきたひとにはすでに知っていることが多いと思う。なぜ、この「最後の小説」になると思われるこの本でまたベトナム戦争のことを取り上げたのか。ベトナム戦争のことについては、「ベトナムから遠く離れて」という大部の小説があり、以前インタビューで小田さんはベトナムについてはこの小説に全て書いた、ベトナムに関する自分の考えを知りたければこの小説を読んでくれと言っていた記憶がある。だから、僕は「ベトナムから遠く離れて」を読んだ。しかしながら、この大部の小説を読み通すひとが少なく、また読まずにベ平連や小田さんを批判するひとが多いと別の本で小田さんを書いていた。いくら本を書いても、自分の考えが受け入れられることは少ない。が、どうしても「ベトナム戦争」「戦争」について伝えたいという思いが「終わらない旅」を読んで感じた。その思いや考えが、自分の次世代の人々の一万人に一人でもよいから伝わり、そしてその人たちがまた次の人たちに伝えていく「精神のリレー」が続くことを小田さんは願っていたのではないかと思う。

  「殺してはならない」は、人間が人間であることの、そうであるための基本の倫理でも
  あれば論理でもあるが、それは「殺されてはならない」というもうひとつの基本の倫理、
  論理と結びついて、結びつけられて初めて成立する。さらに言うなら、もっとも根本に
  あるのは、あるべきなのは、「殺されてはならない」だろう。それが根本にあっての
  「殺してはならない」だ。この関係は、逆ではない。

  そして今、世界のあり方の、こうしたつくりなおしが必要なのは、戦争にかかわっての
  ことだけではない。環境、自然との関係についても、世界が必要としているのは「する」
  側からではなく、「される」側から物事を考え、行うことだ。これまでいつも「する」側に
  立って、世界のもととなる文明は構築され、維持されて来た。しかし文明は、今あきら
  かに行き詰まっている。つくりなおしを必要としている。それは「する」側に立っていて
  はできない。「される」側に立ってのみできる。そちらに立つことによってのみ、地域の
  発展、国家の地位の向上、社会福祉の増進、人類の進歩への貢献、その他の名目
  を掲げての事業が、ただの企業の金儲け、政治家、役人の利権拡大、権力強化の
  思惑に過ぎないことも、はっきり見えて来るだろうし、よしんばそれが、そうしたよこし
  まな思惑なしの真正なものであったとしても、「される」側にとってよくない事業なら、
  それはしない。そうした認識を基本原理としての、つくりなおしだ。

_mg_0040

|

定年の文学

「むだ話、薬にまさる」 早川良一郎

おもに定年後に書かれたエッセイが109編収められており、池内紀さんの解説がついている。毎日新聞社から出版され、絶版になっていた本を、みすず書房「大人の本棚」の一冊として復刊。寝る前に3~4編を読んでいた。短いエッセイなので読むのにそんなに時間はかからないがゆっくり読んだ。奥さんと娘さんと友人のなにげない話題、時々いく海外旅行、あとは思い出話。この早川さんは、なかなか女性にもてる。カジノホテルのレストランの案内係には、お菓子をもらいキッスまでしてもらっている。たくさん女性の友達のことがでてくる。羨ましい限り。定年後に再就職もせず毎日犬と一緒に散歩してたんたんと過ごす。そして、時々海外へ行く。粋な大正人の暮らしかただ。解説の池内さんによると「早川良一郎の文章には、時間を凝縮したような間がはさまっている。なにげない話題が、名優の演じる舞台の人物ような陰影をもち、ほんの二、三頁のエッセイが意味深いシーンのような気がするのは、この絶妙な間のせいである。そのほんの一瞬にも、花も実もある大正生まれが生きた、人生の元手がたっぷりとかかっている」。

_k2c1769

|

みんなが出るテレビ

今週も見ましたTVK「みんなが出るテレビ」。

木村さんキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

ママさんが交代ですかといわれていました・・・・・(´-ω-`)

たしかにあの中ではいちばんちいママが似合いそうな感じでしたが(;・∀・)
花火の映像のときは違うイメージでよかったですよ(いちおうフォロー)(=゚ω゚)ノ

木村さんの出番は横浜インディーズのカウントダウンでした・・・・・・(´-ω-`)
七里ヶ浜のロケは?( ゚д゚)?

_mg_1616 

|

草津 0 - 3 札幌

「J2の1位のチームの戦いとはとても思えなかった」 (三浦監督)。
「スコアこそ3-0と完勝だったが、前半の内容を見る限り、札幌に絶対的な強さはみられない」 (J’s Goal)。

それはいつものことではないでしょうか・・・・・・・_| ̄|○
管理人が見た今季のコンサの試合で内容がよかった試合はなかった・・・_| ̄|○

今週末は札幌ドームで観戦予定の管理人です。こういう話ばかり聞くとC大阪にやられそうな感じがしますが、予想は裏切られるものですといちおうポジティブシンキング。いやあ、しかし、不思議な試合後の感想が多い。3対0の試合なのに景気がいい話がでてこんなあ。補強の話もどっか行ってしまったし。なんか仙台に岡山が移籍。柏に家買ったんじゃないの?

_mg_5293

|

Be Quiet

「美の教室、静聴せよ」 森村泰昌展

何年か前、京都へ行ったとき、雨やどりのため国立博物館へ入ったら、森村さんの展示が国立近代美術館でやっているのを知り見に行った。ちょうど美術館に入ろうとしたとき、森村さんご本人とご両親がタクシーから降り、一緒に美術館に入るかたちになった(ご両親とはっきりわかったのはあとから本を読んだ)。今日、「美の教室、静聴せよ」を見終った帰り際、TVのクルーの人たちがおり、取材しているのかと思った管理人のすぐ前にいたのが森村さんご本人だった。なんという偶然。森村さんは小柄なかたでした。

「美の教室、静聴せよ」は音声ガイドに従って6時間の授業を受ける形式の展覧会。展示室が学校のような感じになっている。森村さんの新旧の作品が70点ほど展示してある。本人による作品解説というのは珍しい。作品につかった衣装、小物なども展示してある。小学生だけで展示を見に来ているのは、夏休みの宿題のためなのか。結構ひとが多かった。初期の作品を見て笑っているひとが多かった。これは、京都の美術館でも同じだった。美術館で作品を見て「これおもろいな」とゲラゲラ笑っている若い女の子のグループを目撃して、管理人は結構驚いた記憶がある。美術館は、有名な作品を確認するという感じで、声を上げて笑う場所ではないという思いこみがあった。森村さんの作品は、絵画やら女優やら作家に自分がなるという一種のコスプレ作品だと思う。これほど手間暇をかけてコスプレをするひとは少ないと思う(これいちおう褒めています)。6時間目のゴヤルーム、とくに「ロスヌボスカプリチョス」の一連の作品は、とても綺麗な写真でありながらグロテスクで風刺がきいている。カタログによるとタイプCプリント、アクリル圧着とある。管理人は、この一連の作品が森村セルフポートレートの中ではいちばん好きだ。家に帰ってからカタログに付属していた音声ガイドCDを聞いて復習した。

課外授業として、三島由紀夫のあの自決した日の演説を映像化した作品がある。当時の映像を知っている人間としては、よくやったなあと思った。映像がブレているのも当時そのままだ。管理人が覚えているのは、映像だけでなにを言っているのかはわからなかった。もともと音声はTVでは流さなかったのかもしれない。三島由紀夫の「檄文」は後から読んだがよくわからなかった。森村作品の最後は、聞くひとが誰もおらず、街路を人々が通り過ぎる場面で終わっている。

_mg_4238

_mg_4236

|

晴れた空

「ハワイ」 森山大道展

「観光に行きたいとは思わないし、興味もない、でもずっと長い間気がかりだった」ハワイ。じゃなんで写真展をやるのかということでタカ・イシイギャラリーへ行ってきた。今日は暑かった。荒木さんのときに教えてられたように、空調のない階段を使い5階へ。汗だくになり会場へ。写真展には5人の入場者。ギャラリーの場所を考えるとこんなものか。綺麗な粗粒子のプリントが70点ほどあった。展示数はちゃんと数えてないのでギャラリーの説明の受け売り。確かに写っているのはハワイの光景。それは三好和義さんの「楽園」とは違って、モノトーンの世界。逗子の海岸だといっても分からないような写真もある。森山さんの場所に対する直感で撮影しているので、この写真展・写真集を見て観光の参考にはもちろんならない。じゃあなぜハワイかという最初の疑問の回答は得られないまま会場を後にした。それでよいと思った。「ハワイ」というと岡晴夫の「あこがれのハワイ航路」を思い出すと森山さんはどこかに書いていたような記憶がある。ボブ・マーレーを聞きながら(BSの放送)これを書いているが、なんだかこの写真展・写真集に合う。

08043

08042

08041

|

「方法」の問題

「思考のエシックス」 鷲田清一

昔、ファイヤーベント、ハンソンなど物理学の方法に対する問題提起を行っている本を読んだことがある。現代物理学の理論と実験の関係は、ある理論の予言というか予想から導かれる粒子とか現象を実験によって検証するという見方が一般的。実際は、この実験は理論に負っている。理論から離れた「純粋な」実験は少ない。太陽ニュートリノを見つけるとか、ボトムクォークを見つけるには巨大な観測装置が必要であり、やみくもに測定を行うわけではない。理論のほうも、実証データがないとその理論は唯の「戯言」にすぎなくなる。毎年発表される論文で10年後までもつ論文は滅多にないのだから、「戯言」と「理論」は50歩100歩ともいえる。その50歩の差にこだわるのが物理学者か。「宇宙論」などの理論は、実験データを得るのが困難な場合が多い。宇宙の始まりは再現不可能。そのため「純粋」な理論が生き残っていることがある。物理から遠く離れてしまった今は最新の状況は知らないのだが。「純粋」の幻想はいろいろなところに現れる。不確定性原理もハイゼンベルグが行ったような思考実験から導くか、生成消滅演算子を使って2次方程式の判別式から導くかによって印象が違う。「論理実証主義」、「唯物弁証法」、「素朴実在論」のどの立場にたつかによって、同じ現象を観察しながら<対象化>と<根拠づけ>がかわってくる。20世紀は科学の勝利というより科学的方法の勝利といえる。物理学は、なぜ2つの質量がある物体間に力が働くかは問わず、その力の関係を法則化する。なぜ光速度は不変か、なぜ波束の収縮はおこるのか、なぜ長距離相関がおこるのか等々は不問にし、そう考えれば結果が説明できるということを根拠に法則化を行う。それを応用し、いろいろな製品が可能となったが、ヒト遺伝子の操作による治療・製薬開発、いろいろな遺伝子操作食物の出現に対して、「倫理」の確立が追いついていない。科学はますます細分化し、専門家でなければわからないことが多くなりすぎた。また、システムは巨大化し、全国にほぼ同じ物資が行き渡り、同じ情報を受け取る。

  緊密に編まれた見えない巨大システム、そのなかでわれわれは自分の狂おしい欲望
  さえあらかじめ整流させられているようなもどかしさに包まれている。たとえば、レジか
  ら中央の情報センターに購買情報が送られるコンビニ、それは地域を擬装しながら、
  その場から「浮いている」。その神経が至るところに同じ風景を出現させ、どんな遠くに
  行っても出発点と同じ光景に出会う。その意味で、コンビニは地域を擬装しながら実際
  には逆に、地域からその場所性を消去する。いろんなものを自分で選んでいるような
  気でいて、じつは選ばされているにすぎないのだ、と。そう、日々「泳がされている」とい
  う感じである。どこに行っても同じというこの空間感覚は、われわれ自身にも浸透して
  いる。「ここ」のリアルの消失である。そうした浮遊感は自分にとってなによりも近い環
  境であるはずの身体をも深く侵蝕しつつあり、だからもっと重しをかけないと身体の存
  在が、ひいては<わたし>の存在そのものが干上がってしまいそうで、だから自傷まで
  してバランスをとらないともたないと、ぼんやり感じている。

_k2c3070

|

みんてれ

「みんてれ」見ました。木村さんは出ていませんでした・・・_| ̄|○

七里ヶ浜の取材は来週放送されるのでしょうか?木村さんによると、ロケといっても普通に電車でいって、電車で帰ってきたそうです。いきなり、管理人の近くの商店街にある鉄板焼きの店を紹介していました。さすが地元TVK。鹿児島産和牛ステーキ3100円ですか。8年も住んでいるのに、あの商店街にそういう店があったとは知りませんでした。あの通りで食事していままで一番高かったのは天せいろの1500円でした・・・_| ̄|○

TVKは「ファイティング80’s」というか「ライヴ帝国」は毎週見ていました。その頃に放送したライブがDVDで発売されていて、「PANTA&HAL」を買って見ました。その放送は見ていたのですが録画することもなかった。「ルイーズ」は懐かしかった。

TVKといえば、2003年のフロンターレの最終戦後、武蔵小杉の居酒屋へ友人といったら、ちょうど「ファイフロ」の関係者の後ろの席になり、その話が聞こえてきて、「なぜ勝ち点1差で昇格を逃したか」について熱く語っていました。番組とは関係なく1サポーターとして語っている感じでなんだか「ファイフロ」を見直しました。こちらの席は、ただただ愚痴ばかりで湿っぽくなっていました。

やっと木村さんの画像を全部整理しました。RAWで2400カットも撮っていた(@_@;;;

_mg_0510

|

遙かなるベトナム

サッカーのアジアカップはイラクの優勝で幕を閉じました。管理人は、なんやかやといって日本の試合を全部見て、サウジアラビアやウズベキスタンなどの試合も見て感じたことは戦前の予想というのは当たらないということ。結局、移動せずベトナムに残っていた日本が一番疲れていたように見えました。アメリカ軍も音を上げたベトナムの気候は想像以上だったのではないかと思います。選手にとっても気の毒な感じがします。4カ国開催はもう無いと思いますが。普段の環境がいいチームほど疲れていたような気がします。オーストラリアにしても韓国にしても試合内容はよくなかった。韓国は決勝トーナメントで1点しか取らなくて3位。日本の試合結果で、結局個の力が必要だとかいまさらいってもしようがないと思います。W杯のために本気で個の力がある選手が欲しいなら、外国人選手を帰化させるのが一番早い。でも、Jリーグができてまだ15年です。個々の選手のレベルアップにはまだまだ時間がかかると思います。で、大方の予想に反して(オーストラリアと日本との対戦が事実上の決勝戦とか書いていたスポーツ紙は結局イラクとかウズベキスタンとかの試合を取材していないのは明らか)、イラクの優勝。イラクは日本が3点取られたサウジアラビアを完封。イラクは強かった。宇都宮徹壱さんが、「日々是亜洲杯2007」に次のように書いていました。

 花火といえば、2年前、元イラク代表監督のベルント・シュタンゲにインタビューしたとき
 に、こんなことを語っていたのを思い出す。
 「イラクでの2年間は私の人生で最もつらい時期だった。集中力もなかったし、人間性
 が壊れていたんだと思う。私の故郷(ドイツ)では、大みそかの夜に花火や爆竹を鳴ら
 すのだが、それさえも怖くてビクビクしていたくらいだ」
 シュタンゲがイラクの代表監督を辞任したのは、前回のアジアカップ直前のことであっ
 た。きっかけは、実にささいなことだった。英国政府から5000個のサッカーボールを
 プレゼントされ、当時の外相とのツーショット写真が地元紙に掲載された。それ以来、
 電話や手紙で「お前を殺す」とひっきりなしに脅迫を受けたという。イラクの現状を考え
 た場合、こうした脅迫がどれほど迫真に満ちたものか、推して知るべし。
 「イラクの若い選手たちに対して、私はフェアプレーの精神をたたき込んだ。相手が誰
 であっても――たとえブッシュであれサダムであれ、サッカーの試合であればルールを
 守らなければならない。そのことは、きちんと彼らに伝わったと思う」 
 近年のイラクは、常に悲惨な戦争と同義であった。祖国が救いようのない戦渦にあるが
 ゆえに、ピッチ上でのフェアネスは、彼らが国際舞台でアピールする上で不可欠である。
 であるからこそシュタンゲは、戦術やプレーのクオリティー以前に、まずはフェアプレー
 の精神を説いたのだろう。彼がまいた種がこのような晴れ舞台で実ったことに、私は深
 い感動を抱かずにはいられない。果たしてシュタンゲは、この試合をどこで見ていたの
 であろうか。彼に直接「おめでとう」と言えないことが、何とも残念である。

_mg_2535  
 

|

« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »