のうのうと生きる
「太宰と井伏」 加藤典洋
太宰治は好き嫌いがはっきりした作家だと思う。好きなな人はとことん好きで、嫌いな人は全然作品を読まないと思う。作品を読む前に、実生活に関する色々な事柄で嫌になる人が多い。カミュの「異邦人」と「人間失格」は高校生のころ何度も読んだ。何度も読んだ理由はもう忘れてしまった。僕が高校生のころ、国語の先生が太宰治は若者が読むもの、ようするに大人が読むには気恥ずかしい小説家というような意味のことを授業で言っていた。
加藤典洋さんの「太宰と井伏」を読んで、大人が読むには気恥ずかしいということがのうのうと生きることの後ろめたさという意味なのかと思った。戦争で死んで行った若者への後ろめたさは、大いなる文学のために死んでください、自分も死にます、この戦争のために、と突きつけられられた太宰には耐えられないことになったようだ。「純白の心」を持った人間には、戦後を生き抜くことができなかったのか。
太宰の評伝を読んでも、そのつかみ所の無さ、自虐的演技的なところと本心がどう結びつくのかわからなさが残る。太宰は晩年井伏を罵る文章を残しているが、井伏をそれに対して言い訳がましい反論を残さずにいた。太宰の文章は、井伏にたいする言いがかりに近い。太宰の死後、井伏は戦後を生き抜いた。井伏は黒い雨で「正義の戦争よりも不正義の平和のほうがいい」と書いている。加藤さんは、戦後文学が戦前の文学にないものを付け加え、ある意味越え出ているのは「純白の心」と「汚れた心」からなる矛盾を生み作り出しているからと書いている。
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